「丹波の赤鬼」の居城 2つの名がある理由とは

2018.08.28
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船城方面から見える黒井城跡

戦国時代、明智光秀を破った武将・赤井(荻野)悪右衛門直正の居城だった、兵庫県丹波w氏にある黒井城跡。地元では、「黒井城」と「保月城」という2つの名で呼ばれている。歴史ブームで、脚光を浴び、登山する人が増えた戦国の山城、黒井城跡。2つの名前で呼ばれる理由や背景を探った。

国指定史跡「黒井城跡」は、文化財としての正式な呼び名。文化財関係者によると、旧春日町時代、県に文化財指定を申請する時には、黒井城跡と保月城跡の二つの名前を使ったという。ところが、国指定申請の際には、文化庁から名称を一本化するように指導を受けた。戦国時代の文献にも保月城の名は見られず、黒井城が頻繁に出てくることから、黒井城跡として申請して指定を受け、以後黒井城跡が使われている。

一方、保月城跡の由来はどうか。一説では、同町の船城地区方面から見える城跡を照らす月の風景が美しく、「保月」と名付けられたという。舟城神社(春日町長王)には、1917年(大正6)の「秋渚逸尖」の作とされる「保月城」と書かれた扁額が掲げられていることも、「保月城説」の裏付けになりそう。黒井から東側の登山口に位置する同町多田地区では、保月城、城山と呼ぶ人が多く、「保月の里」として地域づくりに取り組んでいる。

登山口に建つ「国指定史跡黒井城跡」と彫られた記念碑

また、江戸時代の地誌「丹波志」(氷上文化協会刊)には、「保築」と記され、「丹波志」(名著出版刊)及び「丹波誌」(京都府立総合資料館蔵)には、「保月」と記載されるなど、地誌類でも異なっている。保筑(築)が保月に転訛したという説もある。これについては、同町黒井の郷土史家、故村上完二氏が、「城を築いた赤松筑前守貞範が、保筑=筑前守が保つ、いつまでも自分がこの城を守るという自負と悲願が城の名に込められているのでは」という見方を、共同執筆した「丹波戦国史」の中で紹介している。

山頂の本丸跡に建つ「保月城趾」の記念碑

黒井側の登山口には、「国指定史跡黒井城跡」と1989年(平成元)に指定を受けた当時の西岡武夫文部大臣の揮毫(きごう)による石の記念碑が建つ。一方、山頂の本丸跡には、「保月城趾」と彫り込まれた1957年(昭和32)に春日町観光協会が建てた記念碑もある。「国宝姫路城は、地元では白鷺城などと親しみを込めて呼ばれるように、全国の城には、様々な呼び名があるが、一般的には地名を付けている例が多く、黒井城もそうなのだろう」と黒井城など戦国時代の歴史に詳しい芦田岩男丹波史懇話会理事(同町石才)は語る。「保月城の方が、ロマンがある」という住民の声もあり、両方の名が地域に浸透している。

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