兵庫県篠山市黒岡に、越後国の村上藩主・村上忠勝公の廟所がある。今の新潟県村上市出身の人物で、しかも藩主の廟所がなぜ、兵庫の農村風景の中にひっそりとたたずむのか。大河ドラマ「真田丸」で人気が再燃した真田信繁とほぼ同じ時代を生き、流転の生涯を送った忠勝の足跡を追った。
地元の郷土史家・梶村文弥さんの著書「丹波篠山とっておきの話」や「丹波篠山五十三次ガイド」などによると、養子として村上家に入った忠勝は家系図上、武田信玄とも戦をした猛将・義清を祖父、秀吉に仕え、初代村上城主となった叔父の頼勝を養父に持つ。
義清は真田信繁の祖父、幸綱と「海野平合戦」で戦い、後に真田氏の本拠となる小県郡を支配下に収めている。
慶長15年(1609)、関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康によって、豊臣をはじめとする西国大名を監視する意味を持った篠山城が普請された翌年、頼勝が亡くなり、跡を継いだ忠勝は、殖産を奨励し、金の増産などに努めた。
しかし、信繁が家康を追い詰めながら壮絶な討ち死にを果たした大坂夏の陣から3年後の元和4年(1618)、家中騒動などを理由に突然、改易(現代でいう更迭)された上、篠山へ流され、初代篠山城主だった松平康重に預けられた。
徳川幕府から旧豊臣方の大名として目をつけられていたことや、領地にあった金山を狙われたとも考えられている。
忠勝は篠山城の一郭で生活し、5年後の元和9年、25歳の若さで亡くなったとされる。没後、篠山城から少し離れた黒岡村の廟所に埋葬され、位牌などは村内の法昌寺に安置された。その後、松平家の後に篠山藩を治めた青山家の家臣らにより、供養されるようになったとされる。
実際には以前から寺があったものの、開基を忠勝とする法昌寺に伝わる逸話によると、忠勝の流罪先が篠山となった理由は、「越後にゆかりのある住職と縁があった」とされているという。
忠勝や家臣が村人に読み書きなどを教えていたとされ、今では「学問の神」としても崇敬を集めている。同寺には忠勝の木像と家臣によってつくられた位牌が今も残る。
同時代を生きた信繁が日の本一の兵と呼ばれる一方で、運命に翻弄されて篠山で死を遂げた若殿。地元の自治会と檀家は、毎年、命日に当たる9月26日に法要を営んでおり、今年も廟所に餅を備えるなどして弔う予定にしている。