兵庫県の内陸部にある篠山市に、江戸時代にこつぜんと地図から姿を消した村がある。近隣住民は今も村民の墓を大切に守り、毎年、秋分の日に手厚くまつっているが、墓参りのおこりは、「祟りを恐れて」のことだった。消え去った村「夙(しゅく)」に迫る。
通婚差別も香典やり取り、ゆるやかに交流
夙村があったのは、現在の味間南(約160戸)の中。村のあった場所は、現在、植林されたスギやヒノキが林立する森になっているが、その山中には屋敷跡とみられる台地が点在し、1カ所に集められた墓石や石仏など約30基が鎮座している。
夙村の研究をしている住職、酒井勝彦さん(74)=同市古市=によると、1687年(貞享4)の日付がある「篠山領地誌」に夙の記述が登場する。大辞泉によると、夙とは、「江戸時代、畿内多く居住し、賤民(せんみん)視された人々」とある。
「夙村の人々は、通婚の差別は受けていたようだが、疎外されていたわけではなく、味間南とはゆるやかな交流があった」と酒井さん。その証拠に味間南の旧家、御前昇さん(85)が保有する御前家の江戸時代の香典帳から、夙の人々と香典をやり取りしていた記述が見つかっている。
柿渋師集団の村か
嘉永4―5年(1851―52年)に書かれた「多紀郡明細記」に「柿渋師 夙村ノモノ」の記述がある。
柿渋は、未熟な青い柿の実を砕いて絞り、その汁を発酵・熟成させて作る赤褐色の液体。防腐・防水効果や、補強、医薬品、紙布の染料など、当時は多くの利用があったとされる。
酒井さんは、「夙の人々は柿渋を製造する職人集団で、柿を求めて各地をめぐる出稼ぎの人々だったのでは」と話す。
疫病蔓延? 80戸が7年で7戸に
一時期、80戸を誇る大きな村を形成していた夙村だが、嘉永年間(1848―55年)のわずか7年の間に7戸にまで戸数を減らし、さらにその後、全戸がなくなったという記述が1884年(明治17)に編さんされた「兵庫県多紀郡地誌」にある。
「わずか7年間という短期間で7戸にまで減ったのは疫病が流行ったからでは」と酒井さんは推測。自寺の過去帳から葬儀件数を割り出したところ、同時期の件数が平年の4・4倍にも跳ね上がっており、近隣のほかの寺においても高い値を示している事実から、「村の9割近くがあっという間になくなってしまうということは、やはり流行り病が原因と考えてしまう」と話す。
大火相次ぎ、明治期から供養
その後、明治中期から後期にかけて味間南で火災が続いた。あまりに相次ぐ大火に、当時の村人たちはその原因を「消滅した夙の人たちの霊を放置しているからだ」とうわさした。
そこで村人たちは、夙の村跡の掃除をしたり、夙の氏神であった加茂神社の御神体を味間南の岩上神社に、仏像(阿弥陀如来坐像)を同集落の地蔵堂にそれぞれまつるなどした(1908年)。
さらに、山中に散在していた夙の人々の墓石を1カ所に集め、毎年、秋の彼岸には地元の住職を迎えて供養をするようになった。以来、大きな火事は起こっていないという。
今年も住民約30人が村の跡が残る集落東部の井根山のふもとへと向かい、墓掃除を行った後、墓前にシキミや線香などをそなえ、森の中に読経を響かせた。
今年も無事に墓参りを終えた味間南自治会長の男性(67)は、「事の始まりはたたりを恐れてのことだったかもしれない。しかし現在は、かつての隣人の墓があるというのに何もしないのは忍びない、という気持ちでまつっています」といい、「もうすでに我々の世代では夙について詳しいことはわからない状況になっているが、そういう村が実在したという歴史を、この墓を守りながら後世に伝えていかなくては」と話している。