地域挙げグライダー訓練所整備 先の大戦前に原野切り開く

2018.10.01
ニュース丹波市歴史

柏原中学校昭和16年3月卒業アルバムに掲載されている開墾作業のようす

太平洋戦争中、兵庫県丹波市(旧氷上郡)氷上町新郷の「赤井野原野」にグライダー(滑空機)訓練所があった。もともとは松が林立していた原野を切り開いて整備されたもので、その誕生を解く手がかりが、同県立柏原高校にあった。同校にある資料から、赤井野グライダー場は遅くとも昭和15年度、15年から16年にかけて整備されたことが分かる。

 

在郷軍人に学生らも整備に汗

「格納庫」の「納」の文字の上に協会のプレートが掲げられている。前から2列目中央で軍刀を手にしているのが塚口村長(片山さん提供)

旧制柏原中学校の昭和15年度卒業アルバムに、赤井野開墾中の貴重な写真が収められている。松はすでに引き倒され、広大な原っぱで残った根を掘り起こす職員と生徒の姿がある。何かを燃やす煙があちこちで上がっている。同校発行の「柏陵」第1号(昭和16年)によると、この日は昭和16年1月14日。この日を始まりに7日間、同中生徒が赤井野で勤労奉仕したことが確認できる。

滑空訓練の記述は、同市内各地の「村誌」などに見られる。特に詳しい村誌によると、「郡内各町村出動人員割当を受け特に手薄の在郷軍人の労働奉仕で山野を伐り開き滑空場と射撃場を完成」とある。柏原中の作業初日に立木がなかった事実は、昭和15年には工事が始まっていた事を物語っている。「柏原高校百年史」は「昭和16年に赤井野を開墾し滑空訓練を始めた」とあるが、氷上郡を挙げて取り組んだ大事業に旧制柏原中学生も労働奉仕で一部携わったというのが真相のようだ。

赤井野に滑空場を誘致し、工事を主導したのは氷上郡「沼貫村」の村長で、在郷軍人会氷上郡連合分会長だった陸軍歩兵大尉、塚口誠一だったと見られる。「沼貫村史」によると、昭和14年に氷上郡町村会副会長(後に会長)になり、郡の在郷軍人トップとして「よく軍部との連絡を計り、グライダー練習場、射的場及び郡在郷軍人の練兵場等を赤井野に創設し軍部並に青少年の鍛錬道場とした」と綴っている。

塚口村長は度々赤井野に足を運んだ。「赤井野一期生」の大木芳夫さん(94)=同市氷上町=は、訓練中激励を受けた事を覚えている。「雲の上の人のような偉い人で、光栄だった。軍の訓練の時に、村長に言われ合図のラッパを吹く係をさせてもらった」。

 

滑空訓練所は全国津々浦々に

「大日本飛行協会兵庫支部第二地方滑空訓練所」の標柱。左が片山さん(片山さん提供)

元訓練生の片山英夫さん(94)=同市柏原町=が標柱の前で撮った写真にある「大日本飛行協会兵庫支部第二地方滑空訓練所」。これが赤井野の公称だ。「赤井野」が「第二」なら、「第一」はどこか。同協会発行の「航空年鑑」「昭和16・17年」に、「第一地方滑空訓練所」と記されているのが、明石川崎飛行場。同年鑑には、他に、協会「豊岡滑空場」もある。

昭和15年に帝国飛行協会が改組した同協会は、国防航空を受け持つ実践機関で、大日本航空青少年隊を組織し、青少年の滑空訓練をつかさどった。養成した指導者を協会職員(教官)として訓練所に派遣したほか、滑空場の整備費、機体購入費、格納庫や合宿所の整備費などを助成した。同協会の補助金を利用し、赤井野の格納庫が整備された証拠が庇に掲げられたプレート。協会は昭和14年に定めた補助要綱でプレートの設置を義務づけていた。

同協会の後継団体・日本航空協会が発行した「協会75年の歩み―帝国飛行協会から日本航空協会まで」で、滑空訓練所が全国津々浦々に設けられたことが分かる。「協会では昭和16年から17年にかけ諸般の機構整備と、各種指導員の養成に努力してきたが今回、いよいよ全国に約150箇所の地方滑空訓練所を整備し、これを各府県の協会支部に所属せしめて当該府県航空青少年隊並学徒に対する航空訓練を開始することになった」。大木さんや片山さんらが受けた訓練もこの協会の動きに連なる。

協会の兵庫支部長は県知事。滑空場の事務的な管理は県が行った。協会が地方滑空場整備に交付した補助金は一部で大部分は地元で費用を負担した。氷上郡でも各町村の在郷軍人会などが寄付を募るなどし、整備費をねん出したと見られる。

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