名の重み

2018.11.18
丹波春秋未―コラム

 今は聞かないが、昔は「名付け親」というのがあった。実の親ではない人が、生まれた子どもの名前をつける。子どもがひ弱な状態で生まれたときには、運や健康に恵まれた人に頼んで命名してもらった。名をつけることは生命力を付与することと考えられていたからだ。命名は、単に名前をつけることではない。名をつけるものに命を吹き込むのが本来なのだ。

 書道家の紫舟さんは、「動物でも、道具でも、名前をつけるということは、その後も大切にする責任を引き受けること」と言う。生まれた子の名前を考えるのは、親としての覚悟を持つ関門であり、子どもを育てる責任を引き受けることとも言える。

 だからこそ紫舟さんは、名前をつけることは「命の一部を預かる」ことと言う。命名とは、命を吹き込むと同時に、そのものの命を預かること。このように名というのは本来、命という根源につながるものなのだ。

 司馬遼太郎が、ヨーロッパのキリスト教的な倫理体系に対抗できる日本人の倫理観をひとことで言えば、「名こそ惜しけれ」だと言ったのも、名というのは、その名がつけられた存在の実体そのものであり、存在証明だからだ。そう考えると、名というのは実に重い。

 きょう、篠山市で市名をめぐる住民投票が行われる。その一票は重い。(Y)

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