トットッ、ツー、ツー、トッ、トッ、ツー。昭和19年(1944)、18歳の青年はひたすらモールス信号を覚える日々を送っていた。1分間に送信する文字は最低60字。暗号化のための乱数表は毎日変わる。
仲間の一人が60字を打ち切れなかった。
「貴様ら、気合を入れてやる。歯を食いしばれ」―。連帯責任で班の全員が殴られた。目と耳は兵士にとって大切な部分。集中的に頬が狙われる。1週間に一度は殴られる頬は赤く腫れ、歯茎からは血がにじんだ。
丹波篠山市西野々の野々口護さん(92)は、役場の兵事係から「行ってくれ」と懇願され、「少飛」(少年飛行兵)を志願した。
「当時はどうせ戦争に行かなければならないという雰囲気があった。それに日本は勝っているとも聞いていたので、そんなに不安はなかった」
飛行機を操縦するかと思っていたが、入校したのは熊本県にあった陸軍航空通信学校。もとから算数が好きだった野々口さんは、飛行機に乗り込んで通信する「機上通信」の兵士となるべく、教育を受け始めた。
指導は厳しく、班長からの暴力は日常茶飯事。入校2カ月後には、同期の一人が剣で喉をついて自殺した。
入校したのは敗戦の前年で、空襲はひどくなっており、防空壕を作っている最中に近くで爆弾がさく裂したこともあった。
訓練の合間、飛行場の隅で隠れて寝転ぼうとした時、先客の姿が視界に入った。上等兵だとわかり、敬礼すると、「野々口やないかい」と声がかかった。同じ丹波篠山出身の同級生。今の境遇など、いろんな話をしたひと時が忘れられない。
昭和20年8月、野々口さんが所属した教育隊は岡山県の日本原演習場で飛行場の整備作業に汗を流していた。航空通信学校の卒業まで残り1カ月。もうすぐ爆撃機に乗り込み、戦地に赴くことになる。そこに敗戦の一報が入った。
衝撃―。新聞も見られず、ラジオも聞けない学校生活で、日本は勝っているとしか思っていなかった。そして、米軍が上陸してきたら、兵士は全員殺されるといううわさが流れた。仲間たちと自死することを決意した。はやる若者たちを止めたのは、幾度も殴られた班長だった。
「貴様らは生きて日本を再建しなければならん」
郷里に戻った野々口さんは、農業や林業に携わり、必死に働いた。高度経済成長期には建築資材となる木材を供給し続け、日本の復興を支えた。
同じ集落の戦争体験者とともに戦友会をつくり、亡くなった人々の供養塔を建て、慰霊にも力を尽くした。同級生の中には戦争で死んだ人もいる。また、生き延びて寿命を全うした人もいる。いずれにしても、戦争を知る人が少なくなった。40人ほどいた戦友会は今では2人になり、数年前に解散した。
悲しいことがある。北方四島を巡り、国会議員が「戦争」という言葉を持ち出したというニュースだ。
「いつまでも平和で暮らしていくためには、戦争は絶対にあかん。しかし、最近は戦争を知らない人がおもしろ半分で『戦争』と言ったり、他国の戦争に巻き込まれそうな予感もする。危ない雰囲気を感じる」
野々口さんは、再度、同じ言葉を繰り返した。
「戦争は絶対にあかん」