西川政一

2019.09.22
丹波春秋未―コラム

 バレーボールのワールドカップをテレビ観戦していて、思い浮かぶ人物がいる。市島町下竹田の生まれで、日本バレーボール協会の会長を務めた西川政一だ。

 竹田小学校を卒業後、かつて隆盛を誇った神戸の商社「鈴木商店」に見習いとして入社。鈴木商店の破たん後は、日商の創立に加わり、のちに日商岩井の初代社長を務めた。仕事に対する邁進ぶりは尋常ではなかったろうが、その激務のかたわらで日本のバレーボールの礎を築いた。

 日本バレーボール協会のルーツである「関西排球協会」を大正14年に立ち上げ、自宅に事務局を置いた。一介のサラリーマンとして働きながら、妻と一緒に「排球」というガリ版刷りの機関誌を編集、発行。バレーボールの文献を翻訳して手引書を作り、全国の主だった学校に郵送。宛名を書き、費用も自分が引き受けた。

 日本の女子が金メダルに輝いた1964年の東京五輪では、その表彰式に立ち会った。そのときの模様を、作家の城山三郎は『鼠』という小説でこう書いた。「控え目ながらも、老紳士はそのとき笑みを浮かべていた。日本チーム優勝の蔭には、この老紳士のほぼ半生を賭けた苦闘があったからである」。老紳士とは、西川のことだ。

 西川を、城山は「ロマンの人」と評した。夢を追い求め、実現させた丹波人だった。(Y)

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