織田信長の血筋が藩主を務めた、兵庫県丹波市にあった「柏原(かいばら)藩」。藩主の居館や政庁として使用され、現在もその一部が残る「陣屋跡」の正面玄関には、随所に見事な彫刻装飾が施されている。このほど、その彫刻と、江戸期の彫刻師・中井権次末裔の光夫さん(11代目、京都府)宅に保管されていた彫刻の下絵が一致し、同陣屋跡の装飾は6代目の中井権次正貞(1855年没)らによるものであることがわかった。現物彫刻の実測寸法とほぼ一致する下絵も確認された。
中井家に伝わる下絵を調査している丹波市文化財保護審議会委員の山内順子さんの調査で判明したもので、唐破風の内側頂部に施された装飾「雲」の下絵のほか、正面上部に掲げられた織田家の「木瓜紋」の下絵が確認された。
唐破風内側の「雲」、下絵はほぼ実寸大
唐破風の内側に施された「雲」の下絵は、長さ100センチほど。実物の半分しか描かれていないが、実際に彫る際には反転して左右対称に彫ったと考えられるという。
また、この下絵には
「文政二(1819年)卯正月吉日」とあり、彫刻にかかわった人物「中井権次正貞」「久須亀之助」「中井岩吉」の名が記されている。山内さんは「正面玄関の最も目立つ部分の仕事。名誉である喜びを示すために名を書き込んだのでは」と話す。
「織田木瓜」の下絵も2点
「木瓜紋」の下絵は2点ある。いずれも外郭が5つある「織田木瓜」とよばれるもので、一つは中央の花が大きく描かれており、裏面には「御用御紋」と書かれている。もう一方は花が小さく描かれており、山内さんは「実物は2つの下絵を折衷したようなもの。『御用御紋』とあるのは、お殿様の仕事であることを示す。それだけに妥協は許されず、最終的に藩に認められたものを施したのではないか」と推測する。
「御殿様げんくわん」名誉な仕事
中井家には、中井権次が仕事をした社寺ごとに作業期間や内容、手間賃、かかわった職人の名などを記した「彫物細工萬覚帳」が伝わっている。この覚帳の存在は以前から知られていたが、今回、山内さんが下絵と照らし合わせながら改めて調査。覚帳の中に、文政2年に同陣屋の装飾を担当したという記録が残っているため、覚帳と下絵、実物の彫刻が一致した。
覚帳の中に「御殿様げんくわん」と書かれた仕事の記録があり、これが同陣屋の彫刻を担当した時のもの。山内さんによると、この「覚帳」は“メモ”として書かれたもので、話し言葉で書かれた記述も多いという。例えば、「げんくわん」は「玄関」。「かいる股 御もん波」とあるのは「蟇股(かえるまた) 御紋波」で、梁(はり)の上に設ける装飾に、織田家の木瓜紋と波しぶきのような意匠を施したという意味という。
これらの作業に当たった人物として、中井権次(正貞)、(久須)亀之助、(中井)岩吉の名が記されている。金額は「札百三匁八分五厘」とあり、現在の価格で12万円ほどで請け負っている。
山内さんは「下絵が今も残る陣屋跡の装飾だとわかり感動した」と話している。