出版人、教育者の枠超えた巨人 「平凡社」設立の下中弥三郎 原点にある貧苦の幼少期に迫る

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大正9年には今田村(当時)の電燈設備や、大正13年の大干ばつ時には村の財政再建に奔走するなど、郷里のために尽くし、今田村の第一号の名誉村民に選ばれた下中弥三郎

平凡社を立ち上げ、1930年代前半に当時としては画期的な全28巻の『大百科事典』を刊行した兵庫県丹波篠山市出身の下中弥三郎。平凡社の顔となった百科事典のほかにも、『や、此は便利だ』『現代大衆文学全集』を刊行するなど、「出版は教育なり」を信条に、国民の教育に供する書籍を相次いで世に出した。しかし、下中の生涯は、出版人や教育者の枠内にとどまらない。社会活動や政治活動でも多大な発信力を持ち、主軸的な役割をみずから担った。しかも、その軌跡は、ときに革新、ときに保守と大きな揺れ幅を示した。そんな下中の原点にあったものは何か―。

下中は明治11年(1878)、同市今田町下立杭に生まれた。2歳の時、窯業を営んでいた父親が死去。祖父も亡くなった。下中家には多くの借金があり、祖父の死去によって取り立ての厳しさが増した。借金のかたに屋敷が取り上げられ、一家は納屋に床板を張って暮らした。5歳上の姉は女中奉公に出され、祖母も親類の家に働きに出た。昔、飢饉の時に食料となったリョウブという木の葉を煮て、食事をとった。下中は小学校を3年間通っただけで退学した。

「学ぶ志」持ち続ける

しかし、学ぶ意欲は衰えることなく、近所に住む中井という医師から譲り受けた本をむさぼるように読んだ。子どもながら大人に交じって窯業の仕事に励み、読書に親しんだ。後年、下中は「厳しい労働に服しながらも、一日たりとも学ぶ志を捨てなかった」と回想している。

下中はその後、独学して教職に就く。わずか21歳で隣接する同県丹波市市島町の三輪小学校の校長代理となり、3年後の明治35年に上京。33歳で埼玉師範の教諭となり、大正3年(1914)、36歳の時、平凡社を起こし、出版業にいそしむことになる。

「左へ右へ」思想巡礼

下中の思想遍歴を大ざっぱにながめてみる。上京から2年後の明治37年の夏、下中は「平民新聞」に「悪魔万歳」と題した詩を発表した。詩には「『帝国万歳大勝利』/何ぞ悪魔の大勝利と書かざる/『陸海軍の大捷を祝す』/何ぞ人道の滅亡を祝すと記せざる」とある。この年の2月、日露戦争が開戦。詩を読む限りは、明らかな非戦論だ。

大正8年(1919)には、我が国で最初の教員組合「啓明会」を創設。翌年、第1回メーデーに参加し、壇上に立って教育の機会均等を訴えた。大正13年には、東京・西池袋に同志と共に「児童の村小学校」を設立した。試験も時間割もなく、教室も存在しない。すべてが児童本位の学校で、自由主義教育を実践した。

大正14年、「農民自治会」を結成。下中は設立趣意書に「もともと都会は、農村の上まえをはねて生きてゐる。農民の汗と血の塊を横から奪って生きてゐる」などと書いた。

昭和8年(1933)、「大亜細亜協会」を設立し、下中は理事長になった。アジアは文化的、政治的、経済的にも一個の運命共同体であり、日本はアジアの中心的存在としてアジアの統合を図らなければならないとした。昭和15年、大政翼賛会が発足。中央本部に設けられた中央協力会議の議員に選出された。

昭和16年、太平洋戦争が勃発。下中は「白人帝国主義の桎梏のもとに悩み抜いたアジア諸国民族を解放し、彼らにこの世に生を受けた幸福を満喫させる」のが太平洋戦争の眼目であるとした。こうした下中の発言や動きに、評論家の松本健一氏は、下中を俎上にあげた論文『アジアとムラと』で、「戦争推進者のひとりに数えあげられよう」と断じている。

敗戦後、下中は戦争放棄の憲法を礼讃。昭和30年、湯川秀樹や平塚らいてう、茅誠司らと共に「世界平和アピール七人委員会」を組織した。

虐げられた者に同情

下中の実家にある色紙と、曾孫の大西誠一さん。「洗濯機が出回り始めた頃、下中は立杭にある親戚や、お世話になった方に洗濯機を15台ほど贈ったことを覚えています」と大西さん=2019年12月2日午後3時3分、兵庫県丹波篠山市今田町下立杭で

非戦詩を発表し、教員組合を立ち上げ、自由主義教育を実践。都会に抑圧された農村、「白人帝国主義」に長年苦しめられたアジアの人たちに思いを寄せ、戦後は絶対平和主義を唱え活動する。激しく揺れ動いた下中だが、底流には一貫したものがあるという。近代思想史を研究している中島岳志氏は、著書『下中彌三郎』で、それは「ユートピア的楽土の追求」だとした。また、松本健一氏は「虐げられたものに対する同情と、人間に対する心優しさ」があるという。

下中自身、右傾化を見せた時期に寄せられた“変節”との批判に対して自分の本質は変わっていないとして、「私は生まれて貧苦の中に育ったためか、どうしたらお互いもっと住みよい世界に住み、生き甲斐ある生活を送り得るか、この問題に深く悩んだ。私の思想巡礼は此処から出発する」と書いた。

誰もが住みよく、生き甲斐を感じられる世界。そんなユートピアを追い求めた下中の原点には、幼少期に貧苦を余儀なくされた立杭での暮らしがあったと言えるかもしれない。

立杭に下中の実家がある。少年ながら窯業に打ち込んだ下中が15歳で建てた家だ。その家に下中の色紙が飾られている。そこには「立杭は/わしがふるさと/はたらきて/十九の暮まで/くらしたところ」とある。

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