思い返す教育の恐ろしさ 兄の戦死に家族で号泣 戦後75年―語り継ぐ記憶

2020.08.21
地域歴史

長兄から届いたはがきを大切にしている園田美子さん。反戦に関する本も多数読んでいる=2020年8月11日午後5時25分、兵庫県丹波篠山市西吹で

終戦から75年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は園田美子さん(83)=兵庫県丹波篠山市西吹。

当時は村長だった父と、母、6人のきょうだいと暮らしていた。私は末っ子で甘やかされて育った。姉が3人と兄が3人。姉が何でもやってくれた。きょうだいとの懐かしい思い出は尽きない。

国民学校2年生のころ、先生たちが「天皇陛下や兵隊さんに申し訳ない」と口癖のように言い、足袋もはいてはいけなかった。校長が児童の弁当を毎日見て回り、白ごはんが多すぎると、注意された。兵隊さんを慰めるための「慰問袋」に入れる田舎の風景画をよく描かされた。返事が来ることもあった。

上級生は校庭で防空壕を掘ったり、開墾してサツマイモを作るなどしていた。校門に入ると「奉安殿」に深々と頭を下げ、乾パンを作るためのドングリを拾い、調理室でタンパク源としてのイナゴを大鍋で茹でて、ムシロに広げていたのを覚えている。

空襲警報が鳴ったら、家の灯りに黒い布をかけた。家の南の方の空が真っ赤に光っていたこともあった。空襲がひどくなると、都市部の西宮や尼崎から疎開する子がやって来た。お寺や公会堂で寝泊まりしていた。

兵隊さんが出征するときには、千人針を縫った。お宮さんに集まって軍歌を歌って旗を振って見送りした。篠山鉄道の八上駅まで見送りに行ったこともある。戦死の知らせがあれば、小学校で「村葬」が行われた。

母が「国防婦人会」の会長をしていた。よく公会堂や小学校で、白い割烹着姿で竹やりの練習をしていた。消火できるように防火用水や砂袋を家のそばに積んでいた。2人の姉はなぎなたを練習していた。

長兄に召集令状が届いたときには近所の人に「おめでとう」と言われた。母が自家製の飴など手作りのものを詰めていたことを思い出す。出征前に家族で写真を撮るのが慣例で、親戚そろって自宅で写真を撮った。

ある日、家族で昼食をとっているとき、海軍の兵隊だった兄が戦死したと父から話があった。最初は実感がわかなかったが、みんなで号泣した。特に私と一番年が近かった兄が大声で泣いていたのが今でも忘れられない。兄は南方の海で戦死したと聞いた。

兄からのはがきには「美子は良い子しているか」とよく書かれてあった。また「父上に恥じないよう戦います」「父上母上を助けてやって」などと書かれていた。筆マメだった兄からの最後の便りは、昭和19年6月だった。

長兄が亡くなって、今度は次兄の実に召集令状が届いた。悲しくても悲しいと言えない。八上駅まで見送った。

終戦後のある日の夜中に「帰ってきました」と次兄が帰ってきて、家族みんなで大喜びした。長兄が亡くなったので、次兄は責任感が強く、農業をしながらよく家族を守ってくれた。

戦後は農業をよく手伝った。貧しさに耐え、我慢した。みんながそうだったので当たり前になっていた。

今振り返れば、情景の恐ろしさよりも教育の恐ろしさを思い返す。戦死することは名誉なことと洗脳されていた。とにかく「お国のため」。すべてが戦争に結びついた。

現代の多様性のなさが戦時中と重なる。「長い物には巻かれろ。寄らば大樹の陰」と思い、信念を貫く人が少ない。

日本にはまだ米軍の基地がある。沖縄に基地をつくっては沖縄に平和は来ない。日本は核兵器禁止条約を批准していない。唯一の被爆国なのに核の方向を向いている。日本が批准しないのは矛盾を感じる。

これまで反戦に関する本を100冊ほど読み、新聞に100回ほど、政治、平和、核廃絶、環境問題などを投稿してきた。投稿文をまとめた本を出版し、戦争から学んだことを後世に伝えていきたい。

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