今も人口約4割「丹波足立氏」 武蔵の国から来た御家人【丹波の戦国武家を探る】(2)

2020.09.18
地域歴史

丹波足立氏で多用される「五本骨扇」紋

この連載は、中世を生きた「丹波武士」たちの歴史を家紋と名字、山城などから探ろうというものである。

兵庫県丹波市青垣町は「足立姓」がすこぶる多いところで、某新聞社の調べによれば人口の約4割が足立さんだという。そのルーツを探ると武蔵国足立郡から起こり、丹波国に西遷してきた関東武士の後裔であった。『丹波氷上郡佐治庄地頭足立氏系図』によれば、藤原北家流勧修寺高藤の後裔・遠兼が武蔵国足立郡に居住し、その子遠元が「足立」を名乗ったことになっている。いわゆる藤原姓である。

鎌倉三代将軍実朝の時代の承元三年(1209)、遠元の孫・左衛門尉遠政が丹波国佐治庄地頭職に任じられ、武蔵国から佐治庄小倉へ移住してきた。これが、丹波足立氏の始まりとされる。もっとも、遠政の丹波移住に関しては「承久の乱」の功によるとするもの、執権北条氏に与して功があったとするものなど諸説があり、丹波足立氏のはじめについては不明な点が少なくない。

山垣城跡の大堀切

丹波国に腰を据えた遠政は、本拠を山垣に移して屋形を構え、山垣城を築くと、佐治庄内の要所に子どもたちを配して但馬および近隣の諸豪族に備えた。元弘の乱に際して、丹波武士の多くが足利高氏(尊氏)に馳せ参じるなか、足立氏は荻野・本庄氏らと「今更人の下風に立つべきにあらず」と「若狭から京へ攻め上らんと企てた」と『太平記』に記されている。

山垣城の山麓に祀られる遠政の墓所の石扉には「五本骨扇」と「酢漿草」の紋が刻まれ、今も丹波の足立家では「扇」紋が用いられている。足立氏が「扇」紋を用いるようになったのは、遠元の父遠兼の時からという。扇は古代において神の依代とされ、神霊が宿ると信じられた。中世の武士は戦場で扇を翻せば、神威によって身が守られ、戦に勝利すると信じた。武家にとって「扇」紋は縁起のよい意匠であった。

さて、世の中が騒がしくなった戦国時代、足立氏は山垣城に拠って勢力を保っていた。氷上郡南部に割拠する赤井・荻野一族が勢力を拡大してくると、足立氏は芦田氏と結んで対立。弘治元年(1555)、香良付近で合戦となり、激戦の末に敗北を喫した足立氏らは赤井氏に従うようになった。

天正三年(1575)の秋、織田信長の命を受けた明智光秀が黒井城を攻撃、以後、丹波攻めの戦いが断続的に進められた。天正七年(1579)、第二次の黒井城攻めが行われると、但馬から羽柴秀長が丹波に進攻、足立氏は山垣城で抗戦したがあえなく落城、没落した。その後、世の中が治まると足立一族は佐治庄に還住して帰農、家名を現代に伝えたのである。

山垣城 万歳山から伸びた尾根先に築かれた梯郭式の山城。山麓にある遠政のものという五輪塔の傍らから山上の曲輪群まで城道が続いている。城址に立つと曲輪の切岸、城域を区画する堀切など、当時の姿がよく残っている。

田中豊茂(たなか・とよしげ) ウェブサイト「家紋World」主宰。日本家紋研究会理事。著書に「信濃中世武家伝」(信濃毎日新聞社刊)。ボランティアガイドや家紋講座の講師などを務め、中世史のおもしろさを伝える活動に取り組んでいる。

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