終戦から75年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は梅田信和さん(86)=兵庫県丹波市青垣町佐治。
播州や但馬にも多くの顧客がいた、氷上郡(現丹波市)の佐治町商店街の繁盛店「木村屋百貨店」に生まれた梅田さんは、1943年(昭和18)春のある朝、店の衣料品が、国に強制没収される様子を呆然と見ていた。「百貨店」の名の通り、高級呉服反物、白天竺(てんじく)、キャラコなどの綿織物、肌着、化粧品、靴など多岐にわたる商品を扱い、家族以外に4人の従業員を抱えていた商家は、衣料統制により、一夜にして廃業に追い込まれた。家族は窮乏のどん底に突き落とされた。
梅田さんが佐治国民学校4年生だった同年のある日の夕食後、父が親しくしていた同郡内の同業者から「うちが今日やったから、あんたとこは多分、明日やろ」と電話が入った。前年に公布された、「繊維製品配給消費統制規則」を拠り所にした、商品没収を知らせる電話だった。
父は青ざめた表情で、家族に、店の在庫の柳行李5、6個に肌着、メリヤス、足袋、くつ下などの実用衣料品を詰めるよう指示。荷物を積んで10キロ近く離れた、最も信頼できる顧客の蔵までリヤカーで運んだ。見つかれば、物資隠匿で犯罪者扱い。父が引くリヤカーを姉と2人で押し、店に戻って来る頃には夜が白んでいた。
数時間後、2台のトラックが店頭に横付けされ、揃いの制服を着た検閲官数人が、事務的に、極めて手際よく、全ての衣料品に証紙を貼っては次々とトラックに積み込んだ。父の友人の警告通りだった。3・5間(約6メートル)、奥行き21間(約37メートル)の敷地一杯に建った、総二階建ての店舗兼住宅の子どもの部屋にまであふれていた在庫商品がきれいさっぱりなくなった。残ったのは、化粧品とボタンなどの小物のみ。
荷物を積み込み終わると、厳しい家宅捜査があり、母屋はもちろん、便所の屋根裏、風呂場までくまなく検分された。「商品の対価に、何かしらの証文のような物を渡されたようだが、全財産に近い商品を没収され、廃業に追い込まれた父は、怒り狂っていた」
商家で田畑がなく、たちまち食べ物に困った。「究極の食糧は桑の葉だった」と思い起こす。桑の葉を乾かし、てんころで叩いて砕いて筋を取り、もう一度ゆでてこし乾かした「桑の葉の粉」を、小麦のかすと混ぜて団子状にした代用食が食卓に並んだ。「どれだけ空腹でも、喉に引っかかって、のみ込めなかった。見かねた祖母が、そっと自分のサツマイモふた切れと交換してくれたことは、生涯忘れられない思い出」
死ぬか生きるかの思いで隠した柳行李から肌着や足袋を取り出し、父は近くのお得意さんを回り、米や小麦と物々交換してきた。昭和19年、20年に統制はさらに進み、切符を持っていても物資が手に入らなくなっており、喜ばれた。「長く商売をしていたので、口が堅い信用がおける人物を知っていた。高級呉服は窮乏生活に役に立たないことを見越した、父には先見の明があった」
父が帰宅すると、米びつに米を入れる音がする。「ザーッ」と景気の良い音がするほどは入らず「パラパラ」と乾いた音がした。「姉と2人でこっそり米びつをのぞき、明日もご飯が食べられる、と喜んだものです」と、思いをはせる。
国家権力による略奪。泣くに泣けず、検閲官の捜査を家族中で見守るしかなかった、あの日のことは今もはっきり覚えている。「実用品は軍需物資に使ったのだろう。呉服の反物やらの高級品、あれは一体どこへ行ったのか」