終戦から75年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は森田八千代さん(93)=兵庫県丹波篠山市本明谷。
同市向井で生まれた森田さんは、旧村雲小学校の前身となる神田尋常高等小学校に6年間通った。父と当時の校長から勧められ、教師の道を志した。14歳になった八千代さんは1942年、明石女子師範学校に入学。教師になるという夢をかなえるべく、心理学や哲学などの勉学に熱心に励んだ。
43年4月、国からの勅令により、兵庫県師範学校と明石女子師範学校が合併し、兵庫師範学校となった。勉強をしようと学校へ入ったが、学校・明石公園での芋作りや、太山寺山での炭焼きなど、勤労奉仕に明け暮れる毎日だった。
戦争が拡大するにつれ、中等学校以上の生徒たちは、兵器や食糧の生産現場に動員されるようになった。
44年秋ごろ、八千代さんは、軍服の製造などを担当する姫路の海軍工廠へ動員された。慣れない電動ミシンを使い、毎日、工場で作業をこなした。生活の全てが海軍式で時間に厳しかった。「宿舎や作業場所へ向かうときなど、移動は全てかけ足でなければいけない。5分前行動が自然と身に付きましたね」。
ミシンが凍てつくほど寒い日もあった。あまりの寒さに手の自由が利かなくなり、自らの手を縫
ってしまう仲間もいた。かじかむ手に「フーッ」と息を吹きかけながら、「これを着て兵隊さんに頑張ってもらわな」という一心で作業に励んだ。
45年の冬、敵機が頻繁に本土を襲うようになり、ミシンだけを持ち帰り、分工場となった明石の学校で縫製作業を行うようになった。
食料は満足になく、近くの海でくんだ海水で炊いたおかゆを作った。「誰かが『太平洋がゆ』と言っていました」と笑う。
敵機に見つからないよう身をかがめながら、山中へジャガイモを取りに行く日もあった。味はお世辞にもうまいとは言えず、「えぐみが強かった」。しかし、「何か食べようにもそれしかない状況。むしろ食べさせてもらえてありがたいという気持ちだった」と振り返る。「B29 の音の遠のき裏山に 共に食べにし えぐき馬鈴薯」―。
同年6月、甲高い空襲警報のサイレンが鳴り響いた。先生が必死に笛を鳴らして、急報を知らせてくれた。毎日のように空襲対応の訓練をしていたが、「そのときは明らかに勢いが違いました」。
学校の裏山に作った壕に急いで駆け込んだ。5人ほどで身を寄せ合い、震えながら、目と耳を抑えた。ほどなくすると、「ガーン」と大きな音を響かせながら爆弾が落ちてきた。「熱い熱い爆風が防空壕の奥の方まで吹いてきました」と回想する。「急ぎ吹く 激しき笛にかけ込みし 壕にたちまち 熱き爆風」―。
幸い自分たちに大きなけがはなかったが、山の反対側にある町の光景を見て愕然とした。目にしたのは、空襲で亡くなった人が、遺体の収容所と化した近くの寺へと運ばれていく「行列」。「手がぶらんとなった状態で担架に乗せられている人、爆風で着物が裂けた状態になっている人が大勢いた。それはもう悲惨。たまらなかった」。
それ以降、明石は空襲の標的になった。焼夷弾を受け、宿舎は全焼。水で濡らした頭巾をかぶり、火の手から逃げた。それでも頭が蒸し暑かった。逃げる途中、遠くの町をふと見ると、暗闇から落ちてきた焼夷弾が空中で分散し、松の木に火が燃え移っていく様子が見えた。その光景がなぜか一瞬だけ美しく見えた。「今思えば不思議だった」
同年8月15日、「重大な放送があるから」と、生徒たちが講堂に集められ、玉音放送で日本の敗戦を知らされた。「セミの鳴き声しか聞こえない静かな時間だった」ことを鮮明に覚えている。「これからどうなるんやろ」「アメリカの兵隊にひどい目に遭わされるんちゃうやろか」―。いろいろな思いが脳裏を駆け巡った。
終戦後、小中学校の教員免許を取得。教師として、福住、村雲、篠山など、市内の小学校で約30年間勤務した。退職後、「頭がほうけたらあかん。何かちゃんとしたことを習おう」と短歌を始めた。
今はデイサービスに通所しながら、地元の短歌会に所属し、週に1度は歌を投稿している。自身の戦時中の記憶を歌った作品も多い。
「有能な人が満足に勉強もできず、惜しく、苦しい時代でした」と戦時を振り返る。「伝えたいことを、伝えられない時代だった。今では思ったことを好きに言える。良い時代が来たなと思います」。
八千代さんが詠んだ歌がある。「かの日より七十五年の過ぎ行きよ デイサービスにて歌う 長崎の鐘」―。平和な時代がこれから先、ずっと続いていくことを、丹波篠山の地から願い続ける。