この連載は、中世を生きた「丹波武士」たちの歴史を家紋と名字、山城などから探ろうというものである。
兵庫県丹波市の「丹波吉見氏」は源頼朝の弟蒲冠者範頼の子、三郎資重に始まるといわれ、武蔵国横見郡吉見庄が名字の地である。しかし、中世の系図集『尊卑分脉』にみえる源範頼の子に資重の名はない。また、範頼以前に武蔵吉見氏の存在が知られること、畠山氏の一族という説もあるなど、その出自は明確ではない。丹波に伝来する「吉見氏系図」は、初代の三郎資重から戦国末期の則重まで二十六代続いたとあり、あまりにも代数が多過ぎるものだ。
丹波吉見氏は承久の乱(1221年)の戦功により資重が丹波国鹿集(かたかり)庄の地頭職を得て、西遷してきた関東御家人であったと思われる。
丹波国に下った三郎資重は居館(鹿集城)を築き、一族を庄内に配して丹波に根を下ろした。しかし、鹿集庄に入ってからの吉見氏の動向はようとして不明で、『太平記』にも吉見氏の名は見えない。建武三年(1336)、比叡山合戦における片山高親の軍忠状に吉見小三郎が証人として見え、軍忠状には丹波守護職仁木頼章が承認の花押を書いており、吉見氏は武家方として行動していたことが知られる。ついで文和二年(1353)、吉見三郎が仁和寺の有する鹿集庄領家職を奪取、幕府は丹波守護職にその所業を停止するように命じている。それぞれ三郎を仮名としており、吉見氏の嫡流に位置する人物であろう。
現在、鹿集庄の故地にあたる丹波市市島町上垣には吉見名字が濃密に分布し、家紋は「一文字に酢漿草」「五三桐」が多い。伝承によれば、吉見氏は「一文字に桐」を用いたが、資重の武勲に対して源頼朝より「一文字に酢漿草」紋を賜ったのだという。一説に資重の近い一族という畠山氏は「桐」紋を用いており、桐紋は丹波吉見氏のルーツを暗に語っているようにもみえる。
南北朝期以後、室町時代における吉見氏の足跡を史料上からたどることはできない。十六世紀の中ごろ、赤井氏が氷上郡(現丹波市)一円に勢力を伸張すると、その旗下に属したようだ。天正三年(1575)、明智光秀の丹波攻めが始まると、式部少輔則重は黒井城の荻野直正に与して明智軍と対峙した。天正六年、明智の第二次丹波攻めに抵抗した則重と一族は鹿集城を枕に討死。嫡男の守重は黒井城に籠城したが落城により没落。その後、守重と一族は帰農して家名を現代に伝えた。
【鹿集(かたかり)城跡】兵庫県丹波市と京都府福知山市の境をなす高谷山南西山麓の高台に築かれた館城。吉見氏350年の居城跡であったが、昭和40年代、市島中学校の建設によって城跡はほぼ消滅した。地域の中世史を語る史跡が失われたことは惜しまれる。
田中豊茂(たなか・とよしげ) ウェブサイト「家紋World」主宰。日本家紋研究会理事。著書に「信濃中世武家伝」(信濃毎日新聞社刊)。ボランティアガイドや家紋講座の講師などを務め、中世史のおもしろさを伝える活動に取り組んでいる。