尊氏から家紋賜る荻野氏 後に光秀と激戦繰り広げ【丹波の戦国武家を探る】(6)

2021.02.14
ニュース歴史

荻野氏に多用される「二つ引両」紋

この連載は、中世を生きた「丹波武士」たちの歴史を家紋と名字、山城などから探ろうというものである。

黒井城跡 別名「保月城」。猪口山山上の主郭を中核として、三方に伸びる尾根筋に曲輪を配置した一大山城。八木城、八上城と並んで丹波三大山城の一つに数えられる。主郭部に残る石垣は、斎藤利三、堀尾吉晴らの手になるものだ。

丹波の荻野氏といえば、兵庫県丹波市の黒井城主・荻野(赤井)直正が有名である。『寛政重修諸家譜』の「赤井氏系図」によれば、荻野氏は赤井氏と同族になっている。しかし、鎌倉時代の後期、丹波武士の荻野四郎入道が六波羅より国人の非法を取り締まる命を受けており、荻野氏は赤井氏より古くから丹波で名のある武家であった。

荻野十八人衆が拠った朝日城跡から黒井城跡を遠望

「荻野」という武家の源流を探ると、武蔵七党のうち横山党に属する海老名党から分かれた荻野氏が知られる。初代の荻野五郎季時(俊重)は相模国愛甲郡のうち荻野郷を領して「荻野」を名乗り、「石橋山の合戦」では源頼朝と戦った。他方、梶原景時の孫に始まる系図も伝来しているが、海老名党荻野氏の流れが本流であったと考えられる。

同市氷上町三原に鎮座する内尾神社の「御頭帳」に、荻野氏は十三世紀の中ごろに関東より氷上郡葛野庄に来住したとあり、「承久の乱」の功により新補地頭職を得て西遷した関東御家人であったようだ。

元弘三年(1333)、足利高氏が倒幕の兵をあげると多くの丹波武士が馳せ参じたが、氷上郡葛野庄の荻野彦六朝忠は同調せず足立・本庄氏らと北陸道から京に攻め上った。建武の新政が瓦解して尊氏が幕府を開くと丹波守護職・仁木頼章のもとで守護代をつとめ、武家方として東奔西走した。朝忠の最期は不明だが、その後も荻野氏の名は諸記録に散見しており、丹波国衆として勢力を保っていた。

直正が叔父秋清の菩提を弔うため建立した清安寺址に残る五輪塔群

現在、丹波に分布する荻野家では「二つ引両」紋が多用されている。「二つ引両」紋は二匹の龍を象ったもの、陣幕の模様を意匠化したものなどといわれ、清和源氏足利氏を象徴する家紋として知られる。『丹波志』に「荻野尾張守(朝忠)は尊氏公に仕う、下された御盃の中に二筋の筋が見え、二つ引の紋を賜る」とあり、荻野氏の「二つ引両」は足利尊氏から賜った家紋ということらしい。

戦国時代、春日部庄に勢力を張った黒井城主・荻野秋清は、赤井時家の二男・才丸(のちの直正)を養子に迎えた。ところが、反秋清派の荻野一族の後押しを受けた才丸は秋清を殺害、黒井城主に収まると、武威を但馬、丹後にまで及ぼすようになった。天正三年(1575)、明智光秀の丹波攻めを迎撃したが、天正六年に病死、翌年黒井城は落城、荻野一族の中世は終わった。

田中豊茂(たなか・とよしげ) ウェブサイト「家紋World」主宰。日本家紋研究会理事。著書に「信濃中世武家伝」(信濃毎日新聞社刊)。ボランティアガイドや家紋講座の講師などを務め、中世史のおもしろさを伝える活動に取り組んでいる。

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