この連載は、中世を生きた「丹波武士」たちの歴史を家紋と名字、山城などから探ろうというものである。
久下氏は武蔵国大里郡久下郷を名字の地とする中世武家である。伝来する諸本系図は、舒明天皇の後裔で源氏から養子を迎えたというもの、鎮守府将軍藤原秀郷の後裔というものなどがあるが、にわかに信じがたい。武蔵七党のうち私市党(きさいとう)の庶流とする説が妥当と思われ、それに従えば熊谷氏と同族関係になる。
治承四年(1180)、源頼朝が挙兵すると、久下直光・重光父子は熊谷次郎直実とともに平家方で参戦した。のちに頼朝方に転じて活躍、一ノ谷の合戦などに戦功をあげ、頼朝より伊豆国玉川荘・美作国印庄・丹波国栗作(くりつくり)郷などを与えられた。「承久の乱」(1221)に幕府方として上洛した久下直高は、戦後、栗作郷に新補地頭として留まり根を下ろした。
元弘三年(1333)、足利高氏が倒幕の兵を挙げると、久下弥三郎時重は「二百五十騎ニテ最前ニ馳参」じた。観応の擾乱のとき丹波に逃れてきた足利尊氏・義詮父子を守護仁木氏が石龕寺(兵庫県丹波市)に匿うと、久下氏も警固に馳せ参じた。これら一連の功により、久下氏の所領所職は但馬・丹後国にまで及ぶ全盛期を迎えた。
久下氏の紋といえば、重光が源頼朝の旗揚げに一番に参じたことで賜ったという「一番」紋が有名である。『太平記』にも「一番」紋をなびかせて参陣した時重が面目を施したことが活写されている。さらに、『見聞諸家紋』にも久下氏の「一番」紋が収録されている。一方、『久下家由緒書』には「根本の紋はたかはねにすそ黒」とあり、『久下文書』を伝える久下家も「違い鷹羽」紋を用いている。いわれるところの「一番」は幕の紋であり、「鷹羽」紋は遠く関東から丹波に遷り住み、現代に家名を紡いだ久下氏の長い歴史を語る家紋であった。
室町時代、久下氏は奉公衆の一員として幕府に出仕して勢力を保った。ところが、「明応の政変」(1493)で将軍足利義稙が失脚すると、義稙に近侍していた久下政光は流浪の身となった。その間、丹波の所領は赤井氏ら周辺国人に蚕食され勢力を大きく後退させてしまった。天正三年(1575)、明智光秀の丹波攻めが起こると、右衛門尉重治は荻野直正に従って玉巻城に籠城した。天正七年五月、明智勢の攻撃によって落城、重治は自害した。重治の遺児は流浪、一族は離散したが、いまも旧氷上(現兵庫県丹波市)・多紀郡(現丹波篠山市)域には久下名字が広く分布している。
【玉巻城(久下城)】兵庫県丹波市のJR谷川駅西方の山上に城址が残る。現状は自然地形に近い大味な状態で、わずかに曲輪を区画する堀切が遺構らしいものだ。丹波の中世史に大きな足跡を刻んだ久下氏の城としては、実に寂しいものである。
田中豊茂(たなか・とよしげ) ウェブサイト「家紋World」主宰。日本家紋研究会理事。著書に「信濃中世武家伝」(信濃毎日新聞社刊)。ボランティアガイドや家紋講座の講師などを務め、中世史のおもしろさを伝える活動に取り組んでいる。