兵庫県丹波篠山市黒岡の春日神社で、故人の霊を移した木製の「霊璽(れいじ)」が大量に見つかった。神道で使用される霊璽は仏教の位牌に相当するもの。背面に書かれた没年などから、明治37年(1904)―38年(1905)にかけて行われた日露戦争の戦没者が多く、慰霊祭など、何らかの行事の際に使用されたとみられ、100年ほど前のものと推定されるが、詳細は不明。長く屋根裏に放置されており、関係者らは、「お盆の前に見つかった。霊璽に名前を刻まれた人々も喜んでおられるのではないか」と話している。
霊璽は祖先の霊が鎮まる「御霊代(みたましろ)」。故人の霊を霊璽に移す神式の葬儀「遷霊祭(せんれいさい)」などで使われる。
見つかった霊璽は181柱。30センチほどのものから、1メートル近い巨大なものまでさまざまな種類がある。供え物などを置く大きな「三方」もあった。今年度、国重要文化財の能舞台の修復工事が行われていることに合わせ、氏子らが清掃作業を行っている最中に楽屋の屋根裏で見つけた。
名字からほとんどが地域住民の戦没者とみられる。故人の名前の上には、「陸軍歩兵」「陸軍砲兵」などと書かれたものが多く、背面には、「遼陽攻撃ニテ戦死ス」などとあり、日清、日露戦争中に戦死した人々の霊璽と考えられる。
中には「青森第五連隊凍死軍人霊」と書かれたものもあり、明治35年(1902)に青森県の八甲田山で雪中行軍中に遭難し、200人近い死者を出した陸軍歩兵第5連隊のことを指しているようだ。没年が古いものでは、明治10年(1877)に明治新政府と西郷隆盛らが衝突した「西南の役」の戦没者もある。
一方、旧篠山町の2―4代町長の名も。見つかった霊璽の中で最も新しい没年に入ると考えられる4代町長の服部雄紀氏は、『篠山町七十五年史』によると旧篠山藩士で、明治44年(1911)―大正4年(1915)まで町長を務め、同年、病死。「町葬」されたという記述がある。
霊璽の中には昭和16年(1941)に始まる太平洋戦争など、日露戦争以後の戦没者はないことから、情報を総合すると、霊璽が作られたのは服部氏が死去した後から、太平洋戦争までの間と考えられる。
かつて市内で発行されていた新聞「篠山通報」の大正8年(1919)4月26日号では、春日神社の改修に伴う記事の中で、「征清、日露戦捷祈願及願済の参拝」との言葉があり、このころに使われた可能性もある。
また、同神社は明治41年(1908)から市内に駐屯していた陸軍歩兵70連隊の崇敬もあったと記述があり、連隊の行事として大規模な慰霊祭が開かれた可能性もある。
町長らの霊璽があるのは、戦没者の慰霊祭でともに使われたのか、別の行事で使われたものが同じ場所に保管されていたのか定かではない。
ただ、不可解なのは、境内にある能舞台の楽屋の屋根裏に保管されていたこと。関係者は、「大切なものだったはずなのに、なぜ屋根裏に置いたのか。太平洋戦争の敗戦後にGHQ(連合国軍総司令部)に見つからないように隠したのだろうか」と首をひねる。
ただ関係者によると、代々、氏子役員の間で、何もない楽屋の床の間に水を供えるよう伝えられており、場所はちょうど霊璽が保管されていた場所の真下。「もしかすると、この水は霊璽に供えるもので、一部では屋根裏にあることが知られていたのかもしれない」と推測している。
いずれにしても無下に扱えず、氏子らは、ほこりを洗い落として楽屋内に祭っており、しばらくは同神社で保管する予定という。
同神社崇敬会の松尾俊和会長(69)は、「詳細は不明だが、当時のみなさんの思いが詰まった貴重なもので丁重に扱いたい。遺族もおられると思うので、今後、どうするか、検討する」と話している。