承久の乱で勲功 東寺と荘園支配巡り相論 明智に敗れた中沢氏【丹波の戦国武家を探る】(11)

2021.08.18
地域歴史

『見聞諸家紋』に収録された「中澤」氏の幕紋

この連載は、中世を生きた「丹波武士」たちの歴史を家紋と名字、山城などから探ろうというものである。

丹波中沢(澤)氏は、武蔵国那珂郡中澤郷(埼玉県本庄市)を本拠とした西遷御家人である。その出自は、「清和源氏新田氏流里見氏の後裔」「源頼光の後裔」などといわれる。しかし、『武蔵七党秩父氏系図』『久下氏系図』などに「中沢」がみえ、『久下氏由緒書』には「久下・村岡・中澤・川原・熊谷一流なり」とあることなどから、久下氏と近い一族だったのであろう。

中澤佐衛門尉基政は、承久の乱(1221年)の勲功により本領安堵の上、新恩として丹波国多紀郡(現・兵庫県丹波篠山市)大山荘・桑田郡弥勒寺別院荘の新補地頭職に補任された。大山荘の領主は京都の東寺であった。基政は地頭請を成立させると丹波国に下向して本格的な在地支配を進め、東寺と所領支配をめぐる相論を繰り広げた。孫の基員の代、堪りかねた東寺側が六波羅に訴えた結果、永仁三年(1295)、下地中分して中沢氏は大山荘の3分の2をかちとった。

大山城址を大山川越しに遠望

元弘三年(1333)、足利高氏が反幕の旗を揚げると、中沢一族は久下氏とともに馳せ参じた。ところが、建武新政が始まると丹波国大山荘地頭職は東寺に永代寄進されてしまった。不本意な新政の恩賞沙汰に対して中沢氏は前地頭としての実力をもって、大山荘の押領を続け、南北朝時代の半ばごろ地頭職を回復している。

応仁の乱のころに成った『見聞諸家紋』には、中澤氏の「三つ盛酢漿草に二つ引両」の幕紋が収録されている。一方、『丹波志』には「長澤、姓は藤原氏、武州秩父流。紋は三頭左巴、添紋は丸の内二ツ引」とある。丹波に分布する中沢家の家紋を見ると「二つ引両」「酢漿草」を用いる家が多い、諸家紋の幕紋がベースになったものと思われる。

永正四年(1507)、丹波守護職細川京兆家で家督をめぐる争いが生じて、澄元派と高国派に分裂した。新興勢力の波多野氏は高国、大山荘代官の中沢日向守元綱は澄元に属した。永正五年、元綱は福徳貴寺で波多野元清と戦って敗死した。

大山城址、主郭北を防御する横堀

戦国後期、中沢伯耆守重基が大山城に拠り、波多野に従って古山陰道の要所を押さえていた。明智光秀の丹波攻めが始まると、重基は波多野方として行動。天正六年八月、兵数と装備にまさる明智勢の攻撃に敗れて大山城は落城、中世武家としての中沢氏は滅んだ。

大山(出合)城 丹波には珍しい平地城館。大山川の段丘を自然の要害として築かれた城址には、曲輪・土塁・空堀などがよく残っている。城址から大山川越しに東方を望むと、戦国時代、明智軍と対峙した当時を彷佛させてくれる。

田中豊茂(たなか・とよしげ) ウェブサイト「家紋World」主宰。日本家紋研究会理事。著書に「信濃中世武家伝」(信濃毎日新聞社刊)。ボランティアガイドや家紋講座の講師などを務め、中世史のおもしろさを伝える活動に取り組んでいる。

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