終戦から76年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は大符敏明さん(80)=兵庫県丹波市市島町梶原。
終戦当時は4歳半。「先輩方のように強烈な経験はないけれど、学校にも上がらない、自宅からせいぜい200―300メートルの行動範囲で暮らしていた子どもの目に映ったこと、経験をお話します」
国鉄市島駅まで電柱2、3本のところに住んでいた。戦争にまつわる思い出は多くはないが、戦没者の出迎えに市島駅に行ったことはよく覚えている。
「白いきれを首から下げ、遺骨を胸の前で抱いた人が列車から降りて来た。在郷軍人と思われる兵隊さんのような格好をした人や、エプロン姿の国防婦人会の人が出迎えた。静かなものだった」
市島駅には、引き込み線があり、貨物列車で材木や珪石を積み込んでいた。恵比須神社の近くに、珪石を掘った跡とみられる横穴があり、空襲時はそこへ逃げるよう訓練もした。現在の吉見診療所の場所に、「ようけんじょう」と呼んでいた養蚕関連の大きな建物があり、建物の中で、婦人会が竹槍を突く訓練をしていた。
灯火管制時は、知らせがあると家に1つだけの裸電球を母親が布で隠した。竹田川の下流に、連隊がある福知山(京都府)、鎮守府がある舞鶴(同)の位置関係。「川を目印に飛んでいるのかな」と話していたという。自宅目の前の駅前通りを軍用車両が通った。子どもの目には戦車のように映った。「車の背が高く、高い所に見張りのような人が乗っていた」。対岸の竹田川沿いの堤防の松林で一服する行軍中の兵隊の姿が自宅から見えた。
ある日、橋のたもとに大人が集まってラジオを聞いていた。後年思い返すと、それが玉音放送だった。
食べ物がなかったと言われるが、ひもじかった記憶はない。「母親が、親戚からこっそり分けてもらっていたかもしれません」
同級生の多くが亡くなり、おぼろげな記憶を確かめたいと思ってもできなくなっている。「私の世代ですらそうなので、先輩方の証言は貴重」