終戦から76年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は細見昭さん(89)=兵庫県丹波市春日町野瀬。
1944年(昭和19)、旧制柏原中学校に入学。学徒動員により3年生以上はおらず、1、2年生だけの学校生活が始まった。とはいえ勉強はそっちのけ。同校から山南地域の山へ向かい、地元の住民が焼いた炭を柏原駅まで運ぶ作業を延々と続けた。
かやで作った炭俵は重さ16キロにもなり、体が小さかった分、背負って運ぶのに難儀した。「体格の良い生徒は”ひょい”と担いで足早に運んでいた。自分は遅く、つらい思い出」と話す。
「どうせ勉強はないのだから」と、近隣の同級生たちは学校に向かわず、春日町の国領温泉辺りから山に登り、尾根伝いに、隣接する丹波篠山市の大山地区に出て鐘ヶ坂トンネルを抜け、直接、炭焼き場まで抜け駆けする生徒もいたという。
同校裏には、陸軍のグライダー(滑空機)を収納する格納庫があった。山腹を掘っただけの粗末なものだったが、ある日、大相撲力士の佐賀ノ花ら数人が、格納庫の穴を掘り広げていたという。「何かしら工場を造る計画だったのかもしれない」と思いをはせる。
ある時、親せき宅の男性が出征することになり、見送りに行った。自身の父が祝詞を上げ、近くの熊野神社で軍歌「出征兵士を送る歌」を高らかに歌った。「我が大君に召されたる 命榮えある朝ぼらけ―」の歌い出しは今でも口ずさめる。男子3人を出征させた近所の家には、「誉の家」と札が掲げられていたのを覚えている。
我慢することが当たり前だった時代を子どもながら懸命に生き抜いた。「若い人には粘り強さを養ってほしい」