新田四天王・時能の子孫? 応永の乱で武功の畑氏【丹波の戦国武家を探る】(14)

2022.02.15
地域

丸に二つ引両

この連載は、中世を生きた「丹波武士」たちの歴史を家紋と名字、山城などから探ろうというものである。

兵庫県丹波篠山市の篠山盆地の北方に連なる多紀連山、中世、その南山麓にあった宗我部(そかべ)荘(のち畑荘)内の八百里(やおり)山上に城砦を築き、一帯に勢力を及ぼした国衆が丹波畑氏であった。

丹波畑氏は新田義貞四天王の一人、畑六郎左衛門時能(ときよし)の子孫という。『太平記』巻の二十二には、畑六郎左衛門の勇戦ぶりが活写されている。その影響もあるのだろう、六郎左衛門の子孫を称する畑家は、武蔵国・越中国など各地に存在している。はたして、丹波の畑氏は六郎左衛門の子孫なのであろうか。

大渕館(土居の内)と畑氏代々の居城、八百里城址

畑氏の出自について、『姓氏家系大辞典』では「秦氏後裔か」、鈴木真年(まさとし)編著の『苗字尽略解(みょうじづくしりゃっかい)』では「畑、多治比真人(たじひのまひと)姓、武蔵国児玉郡人」とある。さらに桓武平氏畠山氏流、清和源氏義光流、村上源氏流など諸説があり、いずれが真を伝えているのか、その判断は難しい。丹波畑氏は京丹波・亀岡などにも広く繁衍(はんえん)していることから、六郎左衛門の子孫も含めた出自を異にする家々が混交、宗我部荘を基盤に在地領主化した中世武家であろう。

丹波畑氏の家紋を見ると、八百里城山麓の瀬利と野尻の畑家が「二つ引両」、大渕の畑家が「鶴一文字」、旧氷上郡西部の畑家が「二つ引両」「菊一文字」を用いている。『多紀郷土史話』には畑氏は三流があり、宮村流が「菊一文字」、出合流が「二つ引両」、牛之丞流が「鶴一文字」を用いたという。いずれが中世畑氏の家紋を伝えたものかは不明だが、丹波では「二つ引両」紋多数派を占めている。

八百里城址山麓に祀られた畑守国追善墓(2012年撮影)

さて、丹波畑氏は、丹波守護職細川京兆家(けいちょうけ)に属して頭角をあらわした。「応永の乱(1399)」において山名氏残党が奥畑城に籠城すると、畑能道は城攻めに功を挙げたという。文明十七年(1485)には、大芋(おくも)荘名主百姓が逃散したのを還住せしめるよう幕府より命じられている。十六世紀はじめ、細川京兆家が分裂すると守綱は高国方に属した。その後、波多野元清が多紀郡を掌握すると、守綱は元清に属して一方の旗頭となった。

天正四年、黒井城攻めに敗れた明智光秀を、守能(もりよし)は細見将監と鼓峠で挟撃した。以後、畑一族は波多野氏に属して光秀の丹波攻めに抗戦。しかし、天正七年、波多野秀治が光秀に降伏すると、八百里城も落城した。畑守国・能国兄弟らは戦死し、戦陣を逃れた守能は母子の永沢寺(ようたくじ)に入って得度、老牛と称したという。

【八百里城】 神奈備山とされる八百里山山上の尾根筋に曲輪を並べ、高い切岸、土塁、大堀切で防御した連郭式の山城。城址の南方に土塁・堀に囲まれた平時の居館「大渕館(土居の内)」が残存、戦国武家の暮らしぶりを伝えている。

(田中豊茂=家紋World・日本家紋研究会理事)

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