東日本大震災の発生から11年。「被災地」と呼ばれた東北のまちは今、どのような状況になっているのか。また、あの時、どんな課題があったのか。兵庫・丹波地域とも縁がある宮城県石巻市のNPO法人「石巻復興支援ネットワーク」の兼子佳恵さん(50)は、「『被災地』『被災者』という肩書から脱皮し、誰もが住んで良かったと思えるまちを目指しています」と言い、「数え切れないほどの感謝がある一方で、決して美談ばかりじゃなかった。あくまで私の経験だけれど、当事者の本音が少しでも役に立てば」と語る。同法人の活動と率直な思いを聞いた。
◆心も「非常時」 動いた母親たち
11年前、巨大な津波が押し寄せた石巻市。市町村別では最も多い約3500人が命を落とし、行方不明の人は今もなお400人を超える。
「『3500人が亡くなった』と書いても現実感は生まれにくいかもしれませんが、『大切な人、愛する人が亡くなる出来事が3500回あった』にすると違った印象になる。これは外からの視点か、当事者の視点かの違いではないかと思っています」(兼子さん)
同法人は震災が起きた2011年の12月に設立した。メンバーは子育て中の地元の女性たち。何かの専門家でもない、「普通」のお母さんだ。そして、自らも被災していた。
母親たちはなぜ団体を立ち上げたのか。きっかけの一つは、震災後、人々が身を寄せた避難所での一場面だ。
届いた物資に大人たちが群がり、1枚のせんべいを奪い合って地面に落としたことがあった。また、自宅は残ったもののライフラインは断たれ、食べ物もない高齢者が物資を受け取りに来ると、「お前は家があるからいいだろう」と、何ももらえずに泣き崩れる姿を見たこともあった。
もちろん助け合いも数多くあった。それは、あのころ盛んに使われた「助け合い」や「絆」という言葉とともに報じられた。しかし、優しさや冷静さが失われていた時間もあったのが現実。それだけ心も非常時だった。
もう一つがボランティアと住民との関係。内外から駆け付けるボランティアが復旧の大きな力になり、住民の心の支えになった一方で、被災したまちに来て、「汚い」「臭い」という言葉を平然と使う人や、住民とトラブルになり、「せっかく来てやったのに」と不満を漏らす人も少なからずいた。被災した人のためというよりも、「自分がやりたいこと」をしに来る人も多かった。
そして、住民と「一緒に」ではなく、支援を「する側」と「される側」が明確に分かれ、住民も支援があることが「当たり前」と考えるようになっていった。「なんでもっとボランティアが来ないんだ」―。そんなことを言う住民もいた。
そんな大人の姿を、子どもたちが見ていた。
「これではいけない」「支援はいずれなくなる。地元住民が頑張らないと」―。そう考えた母親たちは、少しずつ活動を始めていった。
◆支え合いの関係 「お茶っこ」から
兼子さんたちがまず取り組んだのが、仮設住宅でのコミュニティーづくりの支援。入居は抽選だったため、同じ地域の人が同じ住宅に入れたわけではなかった。隣近所は、「初めまして」から始まる。ただでさえ、被災し、心を打ち砕かれている。孤独死やひきこもり、虐待の心配もある。支え合いの関係づくりは喫緊の課題だと感じた。
兼子さんたちは、「お茶っこすっぺ(茶話会しましょう)」から始め、さまざまな講座を開いてくれるボランティアの力も借り、人々が集い、交流する場をつくり続けた。
次に取り組んだのが母親たちの仕事づくり。母親らは震災で職を失い、家計が苦しいものの、外に出て子どもたちと離れ離れになることに不安を感じていた。親と離れている間に津波にのまれた子どもがあったからだ。
そこで大阪のアパレル会社の支援を受けて、仮設住宅でできる内職「おうちしごと」を展開。家にいながら収入が得られる仕組みをつくった。
活動を行いながら、たどり着いたのが、「まちづくりは人づくり」ということ。兼子さんは、「よく地域の活性化という言葉が使われますが、改めて被災したまちで『それってなんだ?』と考えた時、建物が新しく建つことではなくて、たくさんの人が元気に生活を営んでいる光景が浮かびました。『特別な誰か』ではなく、『普通の誰も』がまちの主役になる。そこには外からも人が引き寄せられるんじゃないかって」と話す。
この考えは、趣味や特技を持つ住民自身が講師「達人」となって、石巻市内各地で住民を対象にした小さな体験会を開くイベント「石巻に恋しちゃった」に結実する。12年から5年間続け、計10回の体験会で250人の達人が誕生。参加者は5000人を超えた。達人の中からは体験会を経験したことで起業する人も出始め、新たなまちの担い手となった。
ほかにも起業支援や子ども食堂など、多種多様な事業に取り組んでいる同法人だが、全ては「こんなことがあったらいいな」という考えを形にしてきたものばかり。親として、母として、女性として、そして、一市民として、天災によって壊されたふるさとをより良い場所にしていくために奔走してきた。
◆普通の母親に壁 出なくなった声
ただ、普通の母親だからこそ、ぶつかった壁は数え切れない。
震災が起きたことで、県内外からさまざまな人が石巻にやってきた。専門的な知識や経験があり、高学歴。いわゆる「優秀」な人々からは、「被災地にはイノベーションが必要です」「この活動にどれだけコミットできますか?」など、当時の兼子さんたちにとっては訳の分からないカタカナ語が飛んでくる。
あいさつ代わりの「どこの大学出身ですか?」は、高卒の兼子さんの心をえぐった。初対面の人に「このまちで起きていることは社会課題です」と言われ、ふるさとに突然、「×」を付けられた気分になった。
「こんなことも知らないのか」「何も知らないおばちゃんは黙っていろ」と罵声を浴びせられ、差し出した名刺さえ受け取ってもらえないこともあった。
何でもできるように見える他人と、何かしたいのにできない自分を比べ、落ち込む日々が長く続いた。そして、心は悲鳴を上げた。気が付くと、声が出なくなっていた。適応障害とも診断された。数年前にはがんも患った。
それでも活動を止めることはなかった。時には筆談で仕事をこなしたこともあった。その意志の源泉は、震災で亡くなった人たちへの思いだ。
「亡くなった知り合いの中には、市役所の人や看護師さん、地域のために活動していた人たちもいた。あの人たちが生きていたら、きっとまちのために活動されたはず。だからこそ、『生かされた自分が何かしないと』という強迫観念にも似た思いが私を動かしていました」
前向きな力ではなかったかもしれない。けれど、その思いと仲間の支えを頼りに11年間走り続けてきた。
活動を続ける中で、小さなことであっても人から「ありがとう」と言われたこと、またそう言われて自信を付けていく人々を間近で見てきたことが、ゆっくりと心をほぐしていった。声はまた出るようになった。
◆「手伝います」 変化する住民ら
11年がたち、あの頃「がれき」と呼ばれた人々の生活の痕跡はまちから消え、いたる所にあった仮設住宅もなくなり、見た目はきれいなまちに生まれ変わった。
「震災前、『私なんかが』と言っていた人が、『できることがあれば手伝います』と言ってくれるようになった。震災直後は、『他人のことより自分のこと』でしたから、すごいことなんです」―。人も変わりつつある。
兼子さんは今、これまでの活動をまとめた書籍を執筆している。「『生きててよかった』。そんな言葉があるから、私たちは頑張っていける。そして、いつか、亡くなった人たちに出会う時がきたら、『頑張ってきたよ』と言えるように。そして、誰もが『ここに住んでいて良かった』と思えるように。これからも歩み続けていきます。そんな私たちの取り組みが、少しでも誰かの役に立てばと思っています」
災害は今後も起こりえる。ボランティアに向かうかもしれない人々には、「被災した人を『かわいそうな人』と見るのではなく、その人たちにもできることを見つけて、地元の人々と一緒に取り組むことを忘れないでほしい。結局、その土地で生きていかなければならないのは地元の住民なのですから」と呼び掛けている。