激動の昭和時代、兵庫県丹波市あった新駅「春日部駅」設置の「夢構想」を追う連載の2回目。今回は「幻の春日部駅」から少し「脱線」する。春日部駅を調べていると、多くの人が口にしたのは、かつて同市春日町七日市にあった「亜炭鉱」だ。亜炭は石炭より低質の燃料だが、主に家庭用として重宝され、日本では明治時代から全国で採掘されてきた。かつて、七日市で取れた亜炭を京阪神に運ぶため、現地に貨物駅をつくり、国鉄に貨車の側線を敷設していたという。つまり、春日部地区には、春日部駅の前に亜炭専用の「駅」が存在していた。
十台連結の列車走った亜炭鉱
「春日町誌」によると、同町では特に七日市に亜炭の層があり、燃料事情が悪化した太平洋戦争中に採掘がスタート。住友鉱業(現在の住友金属鉱山)が「春日鉱山」と称し、竹田川に近い場所を鉱区として、1944(昭和19)―46年(同21)に大規模に掘られたという。この際、国鉄に近い地の利を生かし、貨車の側線を敷設したようだ。同町誌には、「春日亜炭鉱山側線」として、線路が敷かれている様子が分かる、45年(同20)当時の写真が掲載されている。
58年(同33)11月10日付の丹波新聞は、「その後どうなっている?亞炭專用駅も夢の跡」と題した特集記事を掲載。これによると、七日市の亜炭鉱には、総勢150人が採掘作業に従事したこともあったとある。採掘量は約2万トン、「十台連結の亜炭列車が貨物駅から発車した」とあり、往時の盛況ぶりがうかがえる。
国鉄OBの平尾博美さん(87)=同市=は、七日市の亜炭鉱跡だった付近で、廃線の跡を見た記憶があるという。「見た時期ははっきりしないが、100メートルくらいは線路が残っていたかな」と話す。
父親が国鉄の職員だった仲井啓郎さん(88)=同市=は幼いころ、亜炭鉱付近で遊んだという。国鉄の本線に並行するように、亜炭鉱まで500メートルほどの引き込み線が伸びていたことを覚えている。亜炭専用駅には駅舎がなく、貨車が来ては亜炭を運んで行ったという。「友人が線路にあったポイントを勝手に切り替え、けがをした思い出がある」と笑う。春日部駅設置の話が出た際、父親が「亜炭鉱まで引き込み線があるし、これを使えば駅ができそう」と話していたという。
亜炭鉱跡に残った大きな池
この記事によると、戦後、良質の燃料やガスなどが出回ったこともあって、「亜炭景気」の歩みは止まる。七日市の亜炭鉱も例外でなく、48年(同23)春に幕を下ろしたとある。
田地を掘り返した亜炭鉱跡に残ったのは、3つの大きな池。水深は8―10メートルもあって埋め立てるわけにもいかず、57年(同32)に春日町が池水を利用し、灌漑用水施設を作った。記事では、これを「亜炭全盛のせめてもののこりもの」と伝えている。
同市の三井和俊さん(67)は、この大池をはっきり覚えている。幼い頃、親に「危ないから、あそこは近づいたらあかん」と言われていたという。「池の周りに草が生い茂って池との境目が分からず、怖いような場所だった」と振り返る。場所はワコーパレットの施設「春日七日市ファクトリー」の辺り一帯という。
この七日市の亜炭鉱を巡るサイドストーリーをもう一つ。この場所一帯は64年(同39)、「氷上郡立し尿処理場」の建設用地に決まっていたことがある。同処理場は郡内で建設場所が二転三転して決まらず、ようやく同年3月に亜炭鉱跡に決定。ところが、建設に反対する地元などの意見は少なくなく、一転、計画は白紙に戻った。この後、同処理場は同市山南町南中に建設された。昭和40年から稼働を開始し、現在もある氷上多可衛生事務組合の「南桃苑」だ。
=つづく。