藩主の「抜け道」伝説 直線距離300メートル? 「入ったことある」証言も 語り継がれる”うわさ”の真相は

2023.06.10
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床下に抜け道があると住民らに伝わる柏原藩陣屋跡。玄関下辺りに穴があったと証言する人が多い=兵庫県丹波市柏原町柏原で

「陣屋の床下に穴が開いとってな、有事の際は八幡さんまで逃げられる抜け道になっとったっちゅう話や」―。以前、兵庫県丹波市柏原地域の住民から聞いた話だ。陣屋とは織田家ゆかりの柏原藩陣屋跡(同市柏原町柏原)、八幡さんとは柏原八幡宮(同)のこと。複数人に水を向けてみると、この「うわさ」は柏原地域の幅広い世代で語り継がれているようで、一定の世代から上の人は「何なら穴に入ったことがあるで」という人も多い。両者は直線距離にして300メートルほど離れており、もしあったとするなら、抜け道より地下トンネルと言う方がしっくりくる。果たして抜け穴は本当に存在したのか。地域で長く語り継がれてきた「伝説」の検証を試みる。

「入ったことある」人は多く

柏原八幡宮の三重塔に向かう石段にある祠。抜け道はここにつながっていると聞いたという人が多い

冒頭の証言をしたのは、地元の谷口秀明さん(86)。「確か小学5、6年生の頃。友人たちと陣屋の縁の下に潜り込み、しばらく進んだ所に直径1メートルもないほどの穴があった。床下だから真っ暗で、中に入って穴が崩れたら怖いと思って這い出た」と振り返る。「その後で、抜け穴は八幡さん辺りに出られると聞いた」とも。

同じような話をしたのは矢田貝勲さん(88)。「子どもが2人ほど入ることができる大きさだったかな。深さは1メートルほどだった」と語る。「藩主の抜け道と信じていましたよ」と懐かしむ。

他の年代にも尋ねてみたが、多くの人が抜け道のことを知っており、「上級生から聞いた」と証言。代々、この地域で語り継がれてきたのだろうと推測する。

複数の証言を総合すると、穴の場所は陣屋入り口正面階段を上った所にある、「式台」と呼ばれる板の間の下辺りという人が多かった。「やや左寄り」と具体的な位置を記憶している人もいた。穴の形も丸や四角とまちまちだった。

抜け道の到着地点は、柏原八幡宮の三重塔に上がる石段途中にある祠と述べた人が複数人。現地を確認すると、石で組まれた小さな祠がある。

今は見ることができない穴

陣屋跡の床下。可能な限りあらゆる角度からのぞき、明かりを照らしたが、穴らしきものは確認できず

国指定史跡の陣屋跡は、1695年(元禄8)、大和国松山藩(奈良県宇陀市)から柏原に国替えになった織田信休が、1714年(正徳4)に建てた柏原藩の藩庁兼屋敷。

現存しているのは一部で、往時は東西130メートル、南北160メートルほどあったという。1818年(文政1)の火災で多くが焼失し、今ある表御殿は1820年(同3年)に再建されたもので、焼失を免れた長屋門(表御門)と共に、かつての姿を伝えている。

肝心の抜け穴だが、現在も残っているのだろうか。陣屋跡に足を運ぶと、縁の下には板が張られ、床下に潜り込むことはできない。許可なくして勝手なことはできないため、丹波市社会教育・文化財課に問い合わせた。

「床下に入らせてください」「それはちょっと…」―。国史跡であり、さらには危険を伴うようなことは許可できないとのこと。縁の下に張られた板の隙間から床下をのぞいたり、写真を撮ったりする許可は下りたので、ライトを頼りに床下を照らした。あらゆる場所や角度から見てみたが、穴らしいものは見当たらない。調査の最初からつまづいた。

伊賀上野城に伝わる抜け穴とは

井上さんが描いた、伊賀上野城の井戸の抜け穴の構造。上から2つの穴は「フェイク」で、一番下が城外に通じているとの口伝という

そもそも、城などに設けられた抜け穴、抜け道とはどんなものだろうか。安土桃山時代などに活躍し、主に寺院や城郭の石垣を施工した技術集団「穴太衆」の流れをくむ先祖を持つ井上正直さん(80)=丹波市=を訪ねると、先祖が施工に関わったという伊賀上野城(三重県伊賀市)にあると伝わる井戸の抜け穴について語ってくれた。抜け穴の存在は他言無用の秘密で書物などに残してはならず、一子相伝の口伝という。

井上さんの先祖は「丹波穴太衆」と名乗り、黒井城(丹波市)や篠山城(丹波篠山市)、二条城(京都市)など数多くの石垣施工に関わったという。

「丹波の赤鬼」こと赤井(荻野)直正が城主だった黒井城が、明智光秀の丹波攻めにより落城した後、直正の嫡男・直義が武将・藤堂高虎に仕えた。井上家に伝わっている話では、高虎が伊賀上野城を修築する際、直義の斡旋で丹波穴太衆が招かれたという。

井上さんによると、伊賀上野城にある井戸には抜け穴があるとされ、この施工を担当したのが先祖と伝わっている。口伝によると、石積みの井戸には3つの横穴が掘られ、上から2つは「偽物」で、途中で行き止まりになっている。最も深い位置にある穴が城外につながっており、いったん水に入って横穴をくぐると水面上に出られる構造。そこから通路のように抜け道が伸びているという。

のぞくこと許されなかった「忍び井戸」

伊賀上野城内にある「忍び井戸」

実際、伊賀上野城の小天守内には「忍び井戸」と呼ばれる井戸がある。ここに掲げられている説明版を抜粋すると、「井戸側から横へ三カ所の隧道を穿って抜け穴とした。抜け穴は城を中心に四方に通じ、その長さ一里におよび」「とくに秘密を保持するため抜け穴の出口と小天守に忍びの者を常駐させ、井戸の監視にあたらせ、藩士といえども井戸をのぞくことを許されなかった」―などとある。

口伝では、この抜け穴を造った井上さんの先祖は、城の重大な秘密を知っているとして、本来なら口止めのため腹を切る身だった。井上さんは「築城を命じた徳川家康の『貴重な技術を後世に伝えよ』との計らいで、秘密を漏らさないという約束と引き換えに、命を落とさずに済んだと伝わっている」と話す。

「忍び井戸」を上からのぞいた様子

2017年、人気テレビ番組「探偵!ナイトスクープ」が、この井戸の中に入って抜け穴があるか調査した。この時には抜け穴の存在は確認されなかったが、伊賀上野城や井上家には先述のような詳細な伝承が存在する。

伊賀上野城の天守閣を管理する伊賀文化産業協会の専務理事、福田和幸さん(75)は、「忍び井戸の深さは9メートルある。今は埋まっているが、さらに深い所に抜け穴があった可能性はある。一方で、酸素の有無や強度面などで課題が多いだろうし、実際に人が通れるサイズで掘るのはなかなか難しい」と話した。

井上さん自身も「かおる園」の屋号で、石垣施工を含む造園業を長年営んだ。一子相伝の秘密を語ってくれたのは、自身の代で家業に幕を下ろし、秘密を伝える人がいないため。そして、伊賀上野城の抜け穴が現在は通じていないと関係者から聞いたことで、外部から侵入して展示品などを荒らされる恐れがないためという。

最終地点は岩盤だった

柏原八幡宮が鎮座する入船山の裾。岩盤が露出している部分も見られる

さて、今度は抜け道の最終地点とされる、柏原八幡宮側から考察を試みる。千種太陽禰宜(40)は、この抜け道の行き先が柏原八幡宮であるとのうわさを考えるとき、古来、神社が持つ人々のよりどころとしての役割に着目する。「江戸期から、柏原八幡宮が一種のセーフティーネットのような機能を果たしていたのかなと思う。何かあったとき、経験則で安全な場所と言えば神社だったのでしょう。そういう意味で、抜け道がここ(柏原八幡宮)に来ているという話になったのかもしれない」と推測する。

1983年(昭和58)秋、台風10号が日本列島を襲い、氷上郡(現・丹波市)内にも大被害をもたらした。千種正裕宮司(74)によると、柏原八幡宮の麓を流れる奥村川が氾濫し、柏原八幡宮が鎮座する入船山の裾をえぐったという。ふと、抜け道の話が本当なのなら、穴があらわになっているのではないか―。そんな期待を抱き、見に行ってみると、「岩盤だった。穴を掘ることができるような状態ではなかったし、穴のようなものは見当たらなかった」と振り返る。

現在、柏原八幡宮では、来年で鎮座1000年を迎えるため、「令和の大修造」と銘打って境内各所の建築物の改修を進めている。千種禰宜によると、昨年、本殿の耐震補強に伴うボーリング調査をしたところ、「かなり硬い岩盤との評価でした」とのこと。

「肝試しで入った」証言も

柏原藩陣屋跡から眺めた柏原八幡宮。距離はかなりある

2003―11年度、陣屋跡の史跡整備工事があった。丹波市教育委員会社会教育・文化財課の徳原由紀子さんによると、この時、陣屋建物の解体はなかったため、床下の調査は行っていないという。「電気配線の工事で業者が床下に入って作業したことはあり、穴があれば申し伝えてくれると思う。それがなかったので、おそらく今は埋もれているのだろう」と語る。

江戸期から、陣屋の図面は何度か描かれているが、いずれにも穴の存在は示されていない。「抜け穴が存在したのなら、藩内部の限られた人しか知らないはず」とした。

先述の井上さんは、「陣屋ができたのは1714年。戦国時代が終わり、平和だったはずだ。果たして抜け道が必要だったのだろうか」と疑問を呈する。

井上さんは過去、陣屋と柏原八幡宮の間にある建物工事で、地表より数メートル下の層に遺構があり、井戸の跡があったと聞き及んでいるという。「水脈があるということ。陣屋から柏原八幡宮方向に抜け道を掘れば水が出るはずだ。穴は違う方向に向かっていた可能性も考えられる」と話す。

千種宮司は、床下の穴が陣屋玄関のやや左寄りにあったことを記憶している。「陣屋の外に抜けることを考えると、遠くまで掘らずとも、(現在、陣屋に向かって左隣に建つ)たんば黎明館の方向ではないだろうか」と推測した。

千種宮司の推測を裏付けるかのような証言もある。地元の村岡孝司さん(80)は子どものころ、この穴に何度も入ったことを鮮明に記憶している。「穴の中は四つんばいで進めた。奥行きは10メートルほど。乾いた砂地だった。方向は、たんば黎明館の方向に向かっていたような感覚があった」と語る。

村岡さんによると、当時、子どもたちの間で、この穴に入ることは肝試しだったと言い、「俺は5メートル進んだ」「僕は7メートルだ」と言い合い、自慢し合っていたという。「私は7、8メートルくらいまで進んだかな。穴の中で子どもが方向転換できるくらいの広さはあった。床下で、しかも穴の中だから真っ暗。時々、後ろを振り返り、入ってきた方向を確認しながら進んだものでした」と懐かしがった。

「ロマンあっていいじゃない」

陣屋跡から柏原八幡宮まで、直線距離にして300メートルほど。当時の技術で長距離の抜け道を掘り進めることは、かなりの困難が予想される。しかも、その特性上、秘密裏に掘らなければならない。これらを理由に、柏原八幡宮説を「難しいのではないか」と語る人は少なからずいた。

一方で、「(陣屋跡と柏原八幡宮の間にある)柏原簡易裁判所辺りまで、抜け道を進んだ人がいるといううわさを聞いたことがある」と教えてくれた人もいる。来襲時に床が抜ける細工がしてあり、「敵を落とす穴だったのでは」との推測や、食料の貯蔵場所説を唱える人も。

壮大な「地下トンネル」の真相は分からない。しかし、確かに存在した「穴」が、何かの役割を持っていたことは間違いないだろう。

話を聞いた多くの人が「ロマンがあっていいじゃない」―。そうほほ笑んだ。柏原地域の人にとって、長く語り継がれ、親しんできたうわさ。「丹波柏原の厄神さん」としても親しまれる柏原八幡宮が、抜け道の到着地点として語られているのは、千種禰宜が推測したように、古来、柏原八幡宮が安全な場所として、そして人々のよりどころであったことの一つの証明なのかもしれない。

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