おじ2人の遺品箱供養 家族思った手紙も多数  戦後78年―語り継ぐ戦争の記憶⑬

2023.09.29
ニュース丹波市地域注目

「遺留品箱」と書かれた箱に納められている遺品

今年で終戦から78年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は衣笠光茂さん(72)=兵庫県丹波市山南町坂尻=。

戦争で亡くなった、父方のおじ2人の遺品が長く自宅に保管されていた。供養のため現在は菩提寺に置いてあるが、おじ2人が家族に宛てた手紙や生前の写真、勲章、軍隊手帳、新聞記事、そして村葬の様子を写した写真もあり、故人をしのぶ多くの遺品が箱に納められている。

衣笠茂治さん(1937年9月22日戦死、享年23)、貞夫さん(43年3月21日戦死、享年23)。共に陸軍歩兵伍長。戦後生まれの甥・光茂さんは、「おじたちのことは、親からもほとんど聞いたことはない」と証言する。光茂さんの父は、茂治さんと貞夫さんの兄弟の松治さん(96年逝去)。

茂治さんは、日中戦争の引き金となった盧溝橋事件から約2カ月後、中国・河北省での戦闘で亡くなった。戦死した際の「戦闘詳報」が箱に納められており、両軍の兵力や戦闘時間、使用弾薬数、敵の損害や鹵獲した品などが書かれ、戦死した場所の地図も記載されている。

父の紋太郎さんらに宛てた手紙も数多く納められている。当時、大阪で働いていた松治さんに宛てた手紙では、「理想に向かって勇往邁進してこそ成功者」などと記し、弟を気遣う兄の思いが垣間見える。

茂治さんの戦死を伝える丹波新聞記事もある。家族の談話が掲載されており、「お国の為めに役立って呉れたと思へば家門の譽この上もありません」と気丈に述べている。

貞夫さんは中国・江蘇省で戦死。茂治さんと同じく、手紙やはがきが多く納められている。入営して1年ほどのころ、父・紋太郎さんに宛てた手紙には「自分も益々元気に軍務に精進致し居ります」「氷上郡よりたくさん入営し、色々内地の話を聞き楽しい一刻を送りました」などとつづっている。

このほか、戦友たちと写したとみられる写真を納めたアルバムや、皮の小物入れには、はち切れんばかりに多くのお守りが入れられている。ただ、茂治さんの箱に比べると、納められている品数が明らかに少なく、戦局の悪化をうかがわせる。

光茂さんによると、松治さんも出征し、満州で3年ほど過ごしていたが、兄弟2人が戦死したため、除隊して家を継いだという。2人の遺品箱は、長く自宅の蔵に眠っていたが、茂治さんの戦死から70年目に初めて開封。今から5年ほど前、供養を兼ねて菩提寺に預けている。

光茂さんは「戦後生まれの私には分からない部分もあるが、戦争で亡くなり、かわいそうと思う。生きていれば人生は変わっていたはず」と話した。

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