マニラで戦死した父 長かった「戦後」の苦労 戦後78年―語り継ぐ戦争の記憶⑥

2023.08.28
ニュース丹波市地域歴史注目

古い写真を見ながら戦中、戦後の思い出を語る瀧さん=兵庫県丹波市春日町多利で

今年で終戦から78年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は瀧敏子さん(85)=兵庫県丹波市春日町多利=。

「父が戦死した昭和20年は、弟と祖母も亡くなり、住んでいた家が台風で流されたひどい年でした。20歳ごろまでいろいろと大変で、私の戦後は長かった」―。

子どもの頃の記憶は、はっきりしている。5歳の時、弟が生まれた日の夜のこと。2階でふと目が覚めると近くに誰もいない。わんわん泣いていると、父が階段を上がってきて「泣いたらあかんで。お姉ちゃんになったんやから」と声をかけてくれたのを覚えている。優しい父だった。

京都市内で菓子の組合に勤めていた父は、1943年(昭和18)に召集され、花園駅から出征した。家族4人で近くの踏切から見送り、父はいつまでも車窓から手を振ってくれた。

「勝ってくるぞと勇ましく…」の歌で戦地へと送られた父は、45年(昭和20)4月、フィリピンのルソン島マニラで命を落とした。37歳だった。部隊の戦友が手紙を送ってくれて、状況が分かった。マラリアにかかり、治ったものの、実戦に赴くことができなくなり、配属された食糧班の3人で基地を出て行った後、銃で頭などを撃たれたという。封筒に、形見の品と髪の毛が手紙と一緒に入っていた。

父の出征後、京都も食糧難に見舞われた。44年(昭和19)、隣人のつてを頼って一家で舞鶴に疎開した。小学1年生のときだった。母は炭鉱で石炭を選り分ける仕事に就き、社宅に住んだ。衣類などを売って物々交換で食べ物を手に入れる貧しい暮らし。弟がはしかにかかり、「おとと(お魚)が食べたい」と、繰り返し言いながら天国へ旅立ってしまった。

45年(昭和20)8月15日の終戦のラジオは、祖母、母と聞いた。その夜、母が月を見て、「ものすごくきれいやけど、悲しいお月さんやねぇ」とつぶやいたのを覚えている。

悪いことは重なり、その年の9月に、台風で家が流されてしまった。一家は裏山のお宮さんに避難して無事だったが、家財一切を失って、とうとう売る物もなくなってしまった。本当に食べる物がなく、顔が映るような薄いおかゆを食べていた。住むところは、病院の空き部屋をあてがわれた。さらには祖母が10月に他界。母と2人きりになってしまった。

ちょうどその頃、父の遺骨を取りに来るよう連絡があり、水害の影響でまだバスが不通の中、舞鶴まで母と向かった。そこで受け取った白木の箱の中に入っていたのは、父の名前が書かれた紙きれ1枚だけだった。

中学を卒業後、美容師になり、23歳で結婚。自分の店も持ち、夫婦二人で力を合わせて精いっぱい働いた。今の暮らしがあるのは父が見守ってくれているおかげと思い、毎日、散歩で戦死者をまつる忠霊塔の前を通る時、「お父さんありがとう」と伝えている。

一方、現代日本の豊かな生活に“怖さ”を感じることも。「今の日本はどっぷり幸せにはまっているが、貧しい時を知っているので、どこか怖い」。苦労した経験から「お水1杯でも始末せなあかん」と、食器を洗った水や、風呂の水は取っておき、花の水やりなどに使っている。

そして、一番心を痛めているのが、ロシアとウクライナの戦争だ。「父の死と重なり、ものすごくつらい」と顔を曇らせた。

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