BC級戦犯として逮捕され、巣鴨プリズンで独房生活を送り、1957年に戦犯解除された元柏原高校教諭の大槻隆氏について語る講演が兵庫県丹波市内であった。講師は、同市市島町下竹田出身の京都大学大学院文学研究科講師の白木正俊さん(56)。白木さんは、大槻さんが自宅に遺した資料を調査し、遺族から立命館大学国際平和ミュージアムに資料を寄贈する橋渡しをした。講演は、柏原と篠山の両プロバスクラブの合同例会で行われた。同クラブは高齢者の研修グループ。講演の要旨を紹介する。
大槻氏は1922年に市島町下鴨阪に生まれ、旧制柏原中学校を卒業後、立命館大学に進んだ。43年12月、学徒臨時徴集令に応じ、篠山町の陸軍六十八部隊に入隊し、敗戦まで軍人の道を歩んだ。45年7月、陸軍少尉に任じられ、長崎に原爆が投下された翌日の8月10日、福岡市南部の油山で上官に命じられて、B29搭乗員のアメリカ兵捕虜の処刑に弓矢で加担した。後に西部軍事件の第二事件(通称「油山事件」)と呼ばれるこの事件は、戦後の大槻氏の運命を大きく変えた。
敗戦後、大槻氏は今の三田学園(兵庫県三田市)で地歴公民科の教員として勤務したが、47年3月、事件に加担した戦争犯罪人(BC級戦犯)容疑者として、GHQにより福岡拘置所に逮捕拘禁され、4月には東京の巣鴨プリズンに転送、独房に拘置された。みずからの戦争体験を悔悟しながら巣鴨プリズンで25歳から33歳まで収監生活を送ることとなった。未決囚であった最初の1年9カ月の間、先行して進められた戦犯裁判で多くの死刑判決が下り、巣鴨プリズン内で執行された。戦場での戦争体験がなかった大槻氏だが、自身に迫り来る死の恐怖におびえながら独房生活を送ったと想像される。
重労働30年
48年12月29日、横浜地裁の軍事法廷で重労働30年の判決を受けた。巣鴨プリズンで長期の服役生活が始まったが、大槻氏は獄内で独自の活動を始めた。その一つが短歌の創作だった。ポトナム短歌会に入会するなど、短歌を学び、53年には戦犯有志と共に短歌集「壁あつき部屋」を出版。巣鴨短歌会を主宰し、「歌集巣鴨」を出版するなど、短歌を創作する服役者の中で中心人物となった。
大槻氏は英語が堪能だったため、A級戦犯と同じ拘置棟に収監され、アメリカ兵刑務官との通訳を務めた。それが縁でA級戦犯の岸信介や笹川良一、荒木貞夫と知り合ったと言われる。
54年5月、市島町の女性と結婚した。当時、服役したBC級戦犯は、戦犯となったことから婚約を解消したり離婚した者が多かったため、雑誌「主婦の友」に取り上げられ、「獄中婚」として話題になった。
57年に戦犯解除
52年4月、サンフランシスコ平和条約の発効に伴い、GHQによる日本占領が終了したため、巣鴨プリズンの管理がアメリカから日本に移管され、「巣鴨拘置所」に改称した。以降、国内では戦犯釈放運動が広く展開され、巣鴨拘置所内でも釈放運動が活発になった。拘置所内で行われた戦犯者による日本政府への要求大会で、大槻氏は議長を務めている。50年にぼっ発した朝鮮戦争で東西の冷戦対立が激化するなか、日本に再軍備を要請するアメリカに対して日本は戦犯の釈放を要求した。
54年12月、大槻氏の刑期が10年に減刑され、55年5月、仮出所が許可され帰郷。この年の9月、母校の柏原高校の教員に就任し、57年3月に戦犯を解除された。
町村長が慰問
大槻氏が死後に遺した大量の資料の中には、横浜地裁の軍事法廷で行われた西部軍事件の裁判関係資料がある。48年8月9日から11月29日まで自身の思いを短歌に詠んで便箋に書き綴った「巣鴨の歌日記 獄中之一日」では、短歌の合間に西部軍事件と裁判の経過を日本語と英語で詳細に記録している。1・5畳ほどの広さの独房内部を描いたスケッチもある。
また、52年2月5日からこの年の5月17日の間、結婚前の婚約者の女性に宛てた書簡の中には、東京在住の氷上郡出身者の集まりに招待され、政治家や官僚、実業家らから励まされたことを伝えたものがある。この頃には、収容者の自由な活動が大幅に認められていたことを示すものであり、釈放に向けて大槻氏を支援する組織が東京でも強固に機能していたことを示している。氷上郡の町村長が大槻氏を慰問したことや、大槻氏の地理や歴史の研究費を贈ることを決めたことなどを報じた新聞記事なども遺していた。これらは、BC級戦犯の出所を地域社会は好意的に受け入れていたことを示している。