奥能登の夜は人の気配がなく、しんと静まり返り、空には無数の星がまたたいていた。「ガラガラガラガラ」―。けたたましい音を立てて、突然、数十メートル先にあった民家の一部が崩れ落ちた。激震の爪痕は現在進行形で町をえぐっている。1月1日に発生した石川県能登半島地震。能登在住の丹波地域出身者の取材や、事前に連絡を取り合い、つながっていた人たちから求められた物資を届けるため、1月20―23日の日程で現地に赴いた。
もともと能登に知人はいなかったが、友人の知人や丹波篠山市の福祉施設と交流のある施設など、さまざまな縁が見つかった。東日本大震災を機にできた宮城県石巻市の友人の知人が能登におり、巡り巡って丹波市山南町出身の山口敦子さん(本紙1月28日号、2月1日号掲載)を紹介されるなど、ふしぎな縁もあった。
大きな被害があったエリア「奥能登」は、三方を海に囲まれた能登半島の先端。もともと限られた道しかない上、地割れなどで道路状況も悪いことから、渋滞を避けるため、「能登に来ないで」と発信されていた。断水も解消されていない。
取材したい人がいる。しかし、「行っていいのか」「邪魔にならないか」という自問もあった。そこで単なる取材だけでなく、少しでも現地の役に立とうと、つながった人たちと事前に何度もやり取りし、必要な物資を持ち込むことにした。食料やテント、寝具、水、携帯トイレ、タイヤの補修キットなど、可能な限りの準備をし、「自己完結」を心がけて能登に向かった。
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防災士でシンガーソングライターの石田裕之さん(43)=神戸市=と共に、20日午前5時に丹波篠山市を出発。舞鶴道から北陸道、そして、能越道を通り、5時間後の午前10時に石川県七尾市に入った。休日だったこともあってか、心配した渋滞はなかった。
JR七尾駅を中心に広がる市街地を歩く。車を止めた道の駅は地面が波打つように盛り上がり、液状化で一面に砂が広がっていた。目を落とすと、側溝のグレーチングの網目がひしゃげていた。
市街地では2階が1階を押しつぶしている家や店舗が多い。3階建てのビルは外壁が崩れ落ち、室内が見えてしまっている。民家のブロック塀はなぎ倒され、古民家を活用した店舗は土壁の門が倒れ、建物自体が不自然に傾いていた。
ほとんどの家に応急危険度判定で「危険」と判断された赤い紙、いわゆる「赤紙」が張られている。店の崩れた門には、「当分の間、お休みさせていただきます」という張り紙があった。「当分」がいつまでなのか。再開はあるのか。胸が痛む。
駅前では香川県丸亀市による讃岐うどんの炊き出しに数百人の住民が列をなしていた。湯気が立ち上るうどんを受け取った子どもたちが笑顔を見せる。地元の女性に、「支援の方ですか?」と声をかけられ、少し話し込む。断水に一番困っており、配給の水はなるべくトイレなどの生活用水に使うため、飲んだり、料理したりすることを控えるようにしているという。
「こんなことになるなんてね」と女性の顔が暗くなる。でもすぐに、「兵庫から遠いのにありがとう。気を付けてね」と笑顔で手を振ってくれた。改めて同じ日本に「水がない生活」を送っている人がいることを実感させられた。
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その後、事前に必要なものなどをやり取りしていた知人の男性(63)宅へ。冬の日本海の荒波が目の前に迫り、晴れた日には絶景として知られる立山連峰も冷たい風雨でぼやけて見える。
男性宅も屋根瓦が落ちていた。ちょうど布団を運び出す作業をしている最中だったため、簡単なあいさつにとどめ、作業を手伝った。「助かった。家はなんとか残ったけれど、いつ大きな余震が来るともしれない。今のうちになるべく家財を移しておこうと思って」。一家は夜間、近くの集会所で寝ているという。
同行した石田さんは歌の支援ではなく、地震で被災した人々に生活再建に至る流れを記したインターネットの情報をまとめ、紙に印刷して届けることが目的だった。高齢の人はインターネットを使えず、情報が足りていないため、紙ベースの方が助かると事前に聞いていたからだ。男性は、「これは助かる。集落で配ります」と喜んでくれた。
男性は外部とのつながりが多く、これまでにも多くの人が支援物資を持って訪ねてきてくれたという。全国の仲間からの届く物資の拠点を整備したり、支援のための情報交換をしたりする場を立ち上げようとしていた。
「七尾も被害は受けたけれど、さらに北部の被害が大きい。東日本大震災の時に東北へ赴いたが、(岩手県の内陸部にある)遠野市が津波に襲われた沿岸部の支援基地になっていた。だから七尾も奥能登を支援する場所にならないといけない」
自らが暮らす場所も被災し、断水しているにもかかわらず、能登のことを思う姿に感銘を受けた。男性は結婚を機に能登にやってきたが、「地震後、妻に別の所に移るかと聞いたら、『ここにいるから私たちは私たちなんだ』と言われてしまった」と苦笑。「田舎ならではの面倒なこともあるけれど、それ以上につながりが深く、転勤族だった自分にとっては桃源郷のような場所」。傷ついた桃源郷を復興するため、立ち上がる人々に胸が熱くなった。