毎日足運んだ航空基地 目にした無残な光景とは 戦後79年―語り継ぐ戦争の記憶①

2024.08.14
丹波市地域歴史注目

多くの戦闘機が製造されていた福知山航空基地に毎日のように足を運んでいた戦時を振り返る尾﨑さん=兵庫県丹波市春日町棚原で

今年で終戦から79年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は京都府福知山市で生まれ育った尾﨑正夫さん(88)=兵庫県丹波市春日町棚原=。

戦禍のさなかだった幼少期には、自宅近くにあった、戦闘機「紫電改」などを製造する海軍福知山航空基地(石原飛行場)に毎日のように足を運んだ。そこでは、心優しく、勇壮なパイロットにせん望のまなざしを向けながらも、兵士たちが命を落とす無残な光景も目の当たりにした。

航空基地の完成時、尾﨑さんら地元の小学生が招かれ、盛大に完成を祝った。デモンストレーションとして「2枚羽の戦闘機」が派手な宙返りや旋回を披露した。「面白い。乗りたいな」と、航空兵になる夢を抱くきっかけになった。

航空基地では朝から晩まで毎日、戦闘機の飛行訓練が行われていた。航空兵の顔が見えるぐらい低空飛行をしているときもあった。手を振ると、航空兵は優しく振り返してくれた。

悲惨な現場も見た。空へ飛び上がるときに風向きが変わって片側の羽が地面と接触してひっくり返ったり、着地に失敗したりして、機体が炎に包まれる光景を何度も見た。戦闘機に乗り込もうとした軍服姿の人が、憲兵にピストルで撃たれた場面にも遭遇。憲兵は「スパイだ。持ち物を調べろ」と声を上げていた。

尾﨑さんが普段通う尋常高等小学校の体育館は航空兵らの宿舎になっており、隊員が毛布を敷いて寝ていた。ある朝、朝食を食べるのが遅かった隊員たちが運動場で向かい合わせになっていた。上官は「殴れー」と叫んだ。殴り合う力が弱いと、「力が入っとらん」「足を踏ん張れ」と言われ、「隊員が飛んでいくぐらい」(尾﨑さん)の勢いで上官から殴られていた。「ひどいことするな。でも、兵隊なんてこんなもんなんかな」と感じた。

正月には遠方で帰省できない兵士を1泊だけ泊めることがあった。尾﨑さんの家にも2人の下士官が泊まり、豪勢な料理でもてなした。「ぼく、ちょっとこい」と声をかけられ、小遣いをもらえた。そのうちの1人と尾﨑さんの父は終戦後も手紙のやり取りを続けた。

1945年になり、戦況が悪化すると、米軍の大型爆撃機B―29が上空によく飛来するようになった。7月には福知山航空基地に米軍機が飛来した。「日本の飛行機が飛ぶ音は『ブーン』だが、米軍の飛行機は『キーン』という変わった音だった」。航空機の上を3回ほど旋回した後に急降下し、基地が機銃掃射の標的になった。

3、4日後には、昼前からサイレンが鳴り続け、防空壕に身を潜めた。外に出ると、舞鶴方面の上空が空襲で真っ赤になっていた。「恐ろしい。人ごととは思えなかった」

終戦後、長男の寛さんの死亡通知が役所から届いた。激戦地となったビルマに出征しており、「多分あかんやろな」と覚悟はしていた。通知と共に届いた箱の中には、「遺骨」として石ころ一つが入っていた。両親の目から涙が止まらなかった。

近くの基地には進駐軍の米軍兵が常駐するようになった。「寄っていくと、頭をなでてくれて、チョコやビスケットなどのお菓子をくれた。違う人のところに行くと、またお菓子をくれた」

ある日、「ドーン」という大きな爆発音が響いた。1キロ離れた場所にある家が揺れるほどの衝撃だった。何があったのかと爆発音のもとへ向かうと、目から眼球が飛び出たり、体から内臓が出たまま歩いていたり、片腕が飛んでなくなってしまっている人がいた。車に積んでいた爆薬が誤ってたき火を囲む一般人のもとに転がり、爆発に巻き込まれたという。

「戦争から無傷で帰ってきたのに。戦争みたいになってもーて」と涙を流す人がいた。「その時の光景はいまだに目に焼き付いて離れへん」と目を潤ませる。

ウクライナやパレスチナ・ガザ地区の戦禍に思いをはせ、「学校や病院などにいる関係のない大勢の人が犠牲になっている。関係ない人がいつ命を落としてもおかしくなかった当時を思い出す。もっと話し合いができないものか。戦争はない方が良い」と神妙に語った。

関連記事