今年で終戦から79年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は大木智津子さん(87)=兵庫県丹波市氷上町新郷=。
「とにかく食料がない。お腹がすいていないときはなかった」。戦況の悪化を受け、大阪市から祖父の古里、丹波市春日町野山に疎開した。何不自由ない大阪時代の生活から一転し、ひたすら「我慢」の毎日を送った。
小学1年生の時、祖父と母、弟の4人で疎開。父は体が弱かったにもかかわらず海軍に徴兵された。祖父は若い頃に郷里を離れており、知り合いは一人もいなかった。農家の8畳間の部屋を借りた。2階にも疎開した人が暮らしていた。
畑もなかったため、食料はたちまち不足した。ヨモギやセリ、オオバコ、ノビルなど、あらゆる野草を採取した。夜中に火をつけたたいまつを手に川沿いのあぜ道を歩き、ドジョウをすくった。イナゴは生きたまま竹筒に入れて持ち帰り、串焼きに。母は「食べなあかん。空腹で死んでまう」と、智津子さんがおいしくないから食べたくないと泣きながら拒んでも、口の中に無理やり放り込んだ。「食べられるものは全て食べた」
食料を求めて物々交換をしたこともあった。上等な着物や風呂敷を出したのに、返ってきたのは米ぬかや古い梅干しぐらい。「ぼったくりだった」
学校では教師から「日本は神の国だ」「神風が吹く」とたたき込まれた。運動場は開墾され、カボチャやサツマイモを育てていた。
終戦の玉音放送は家のラジオで聞いた。一緒に聞いた大人は皆、泣いていた。幼かった智津子さんが「うれしい」と素直に言うと、叱られた。
父は戦地に赴くことなく帰還したが、病に侵された。大阪に戻ると、空襲で一面が焼け野原となり、栄養失調でお腹が腫れた子どもたちであふれかえっていた。
「供出した金属は戦争に使われていた。今も拡大された軍備に税金が費やされている」と、当時と今を重ね合わせる。「戦争に無関心な人が多くなった。他国を見ていると、日本がいつ戦争に巻き込まれてもおかしくない。そうなったときに『戦争は駄目』と声を大にして言えるよう、関心を持ち続けなければいけない」