能登半島地震から1月1日で丸1年となった。共に地震で大きな被害を受けた石川県七尾市で被災した、兵庫県丹波市出身の2人の女性。地震後、本紙記者を介して互いの存在を知り、同じ能登で暮らす丹波出身者で「のと丹波人会」を結成し、交流している。それぞれはどんな一年を過ごし、正月に何を思ったのか。いまだ復興途上で、震災の爪痕も色濃く残る能登へ足を運び、二人を訪ねた。=㊤からつづく=
新たな命が、家族の、能登の「光」となった―。能登半島中部、石川県七尾市中島町で暮らしている丹波市山南町小野尻出身の山口敦子さん(28)=旧姓・大地=。能登半島地震では、夫の翔太さん(29)と、当時、生まれたばかりの息子の大智ちゃん(1)と被災した。目の前で隣家が倒壊し、自宅の敷地になだれ込んだ。余震や断水が続いていた時期は、大智ちゃんと金沢市の親戚の元に身を寄せ、家族分かれての生活。その後、翔太さんの実家で暮らし、昨年10月末になって、ようやく崩れた隣家の撤去が終わったことから自宅暮らしに戻ることができた。
発災1年の正月の朝を迎えた敦子さんは、「1年前と同じ、晴れて暖かい正月。去年と同じことをすると『また地震が来るのでは』と思えてしまって。昼食は同じ店に行ったけれど、違う席に座った。全然、『明けましておめでとう』という気持ちになれなかった」と振り返る。「快晴の正月が怖い」と言った「のと丹波人会」の鈴木淳子さん(41)とまったく同じ気持ちだ。
翔太さんは、特産の「能登かき」の漁師。家族で「山口水産」を営む。地震による津波で牡蠣の赤ちゃんを育てる牡蠣棚に一部被害はあったものの、直後に営業を再開し、復興の先陣を切って、特産を全国に送り続けた。また、自身のユーチューブチャンネル「能登かき漁師 しょうた」を活用し、地震当日の夜から現状を発信。市外にいる親戚の人などに代わってまちの様子を届ける活動を展開し、「この場所の現状が知りたい」「この人の安否が知りたい」などの声に応え続けた。
輪島や珠洲など、さらに大きな被害があった場所の情報は頻繁に報道されたが、七尾の情報は少ないと感じたこと、発災直後に外部の人が押し寄せると救助活動などの障害になる恐れがあったことなどから、配信を決めた。2週間ほど継続し、SNSを通じて50人ほどとやり取り。「とても喜んでもらうことができ、やってよかったと感じている。これからまたどこかで災害が起きる。地元の人が発信することの大切さを知ってもらえたら」と振り返る。
一方の敦子さんは、地震の影響で従業員が引っ越すなど、人手が減った家業を支えつつ、大智ちゃんの子育てに励む日々を送っていた。
そんな中、おなかの中に命が芽生えていることが分かった。
「みんなつらい生活を送っていた時。この子の存在が家族の生きる希望になった」。生まれた娘に贈った名前は「ひかり」。家族の光であり、復興に向かう能登の光になってほしいという願いを込めた。誕生の翌日には大きな余震があった。それでも実家の両親もサポートに来てくれて、一家総出で成長を見守った。
遠く郷里の丹波からもたくさんの応援があった。本紙記事を読んだ人や敦子さんの同級生、友人らが翔太さんの牡蠣を購入してくれた。地震前までは実家へ届けるくらいしかなかった丹波への発送が増え、計200件近くになった。最近も「のと丹波人会への支援に」と、寄付を贈ってくれた人もいた。
「地震の時も、9月の豪雨の時も、たくさんの人が
心配の連絡をくれた。どうやってお返ししたらいいか分からないくらいありがたかった」と感謝し、「七尾に嫁いでから、今ほど丹波を近くに感じたことはない。何かあっても帰ることができる『ふるさとがあるありがたさ』を実感している」と話す。
林業家としてチェーンソーを手に山に入り、里山を通して能登を愛してきた。「地震で大好きな景色が変わってしまい、また胸を張って『能登に来て』と言えるか不安だった。でも、今は復興していく過程を見に来てほしいと思う。報道で復興が遅れていると言われがちだけれど、ずいぶんきれいになった。毎日、全国から来たトラックやダンプが家の前を通るたび、復興が進んでいると感じてうれしくなる」
人口が流出する中、山口水産では新たな取り組みをスタートしている。同じ七尾で被害を受けた「和倉温泉」など、繁忙期が違う職種同士で人材の受け皿をつくり出す取り組みだ。さまざまな仕事を時期ごとにこなす〝複業〟が能登全体に広がることで、定住する人も増えるのではないかと考えている。
翔太さんは、「これまで表面上、『地域のため』と言いながら仕事をしてきたけれど、この一年、人がいないと地域が活性化できないと改めて思わされた。10年後に来る過疎化が一気に来た感じで、自分の会社が生き残るためには地域に人がいないと成り立たない。そんなことを思えたのは、地震を通して少しは自分も成長できたからかなと思う」と言い、「一年を通して何かの産業が繁忙期を迎えている。そんな能登に魅力を感じる人が住んで働いてもらうことで、人口流出を防げる。今こそ、大きくシフトチェンジする瞬間だと感じている」と話す。
否応なく始まった地震後の生活。慌ただしく過ぎる時間の中で、常に思うことがある。「あの日、一歩間違えたら死んでいた。生きていることへの感謝、家族への感謝、そして、身の回りにある当たり前の幸せを感じられるようになったのは、ある意味、地震のおかげかもしれない」と敦子さん。子どもたちに優しいまなざしを向けながら、「ここで子育てすることの意味を強く感じている。改めて、自分が能登で生きていく覚悟が固まった。子どもたちには、能登で生まれ、育ったことに誇りを持ってもらいたい」と決意を新たにする。
そして、「しなやかに強い能登へ、自分たちなりに何か一役担うことができたらいいなと思っている。それに地震を体験した自分たちだからできることで、丹波に恩返しができたら」。子育てに励みつつ、2つの郷里のために、できることを模索し続けている。