兵庫県丹波市の礎を築いた功労者として挙げられる歴史上の人物の筆頭は小島省斎だろう。柏原藩の藩儒として藩政に関わり、藩校「崇廣館」を創設するなど教育を振興したのをはじめ、財政を立て直し、諸藩に先駆けて柏原藩を勤王に導いた。豊かな学識と高潔な人格から「丹波聖人」と慕われた省斎の人物像について素描すると同時に、残した言葉の一部を紹介する。
省斎は文化元年(1804)、氷上郡佐治村に生まれた。父も兄も早くに亡くなり、母ひとり子ひとりの貧しい環境で育った。
幼少の頃から向学の志に富んでいた省斎は23歳の時、独学では得るところが少ないと、京都の儒学者、猪飼敬所(いかいけいしょ)に入門。母が病気という知らせを受けて帰郷するまで3年間、学んだ。帰郷後、佐治に私塾を開設。省斎の評判は柏原藩主の耳にも届き、省斎を登用した。なかでも8代藩主の織田信敬(のぶたか)は省斎を重用した。信敬は、藩校「又新館(ゆうしんかん)」を創設し教育に力を入れると共に柏原藩の気風を正すなど、名君として仰がれたが、わずか18歳で死去した。
信敬の死後、藩校が廃校となったことを憂えた省斎は、次の9代藩主の信民に藩校を創設することを進言し、「崇廣館」が開校。柏原藩の学問は、近隣の諸藩をしのぐまでに盛んになったと言われ、学問を重んじる風土が築かれた。その風土はのちに、明治30年(1897)、柏原中学校(現柏原高校)の開校として結実した。県下で4番目の公立中学校だった。
省斎は実務の面でもすぐれた。多額の借財を背負っていた柏原藩の財政を改革し、借財を大きく減らした。また、維新の際、佐幕か勤王か、諸藩が去就に迷った時、省斎は「天子につくことこそ大義」と、いち早く柏原藩を勤王に導いた。薩長の兵士と共に西園寺公望の率いる山陰道鎮撫軍に参加し、鎮撫軍の一角をなすなどの功績をあげたことから、明治新政府は柏原を郡の行政拠点として位置づけ、国や県の出先機関が多く設けられた。
省斎は多くの門下生を育てた。薫陶を受けた一人が田艇吉。艇吉は、明治の鐘ヶ坂トンネルや阪鶴鉄道の開通に尽くすなど、丹波の明日を開いた。省斎の教えが門下生を通じて花開いた。
明治17年に死去。艇吉ら門下生が省斎をたたえる石碑を建立した。その碑は今、柏原藩邸の向かい側に立っている。
省斎が残した言葉と意訳
細鍼(さいしん)手に箚(ささ)れば、疾痛して用ふるに任(た)えず。纖塵(せんじん)目に入(い)らば、昏眩(こんげん)して視(み)る可(べ)からず。此れ心も亦(また)然(しか)り。名利の一念心上に留在せば、天真束縛せられて自在なるを得ず。
【意訳】どんな細い針であっても手に刺されば痛くて、その手は使えない。どんなに微小なほこりであっても、目に入ると、目がかすんでしまう。これは心も同じことである。名をあげたいとか、ひと儲けがしたいという思いがわずかでも心中にあれば、そんな思いに心はひきずられ、振り回され、自由闊達でなくなってしまう。
瓦礫(がれき)を荷(にな)う者、壊裂を顧(かえりみ)ず。金玉(きんぎょく)を懐(いだ)く者、小缺(欠)をも懼(おそ)る。
【意訳】自らをつまらなく、取るに足りないと思っている者は、ともすれば自暴自棄になりやすい。反対に、自らを尊く、かけがえのない存在だと思っている者は、少しでも我が身をおとしめることがあってはならないと、心を配るものだ。
人我を敬う、吾固(もと)より漠然たり。人我を謾(あなど)る、吾亦(また)漠然たり。我は唯、吾が信ずる所を勉むるのみ。
【意訳】人が私を敬ったとしても、気に留めることはない。人が私をあなどったとしても、同じだ。世間の毀誉褒貶(きよほうへん)は聞き流し、私はただ自分の信じているところをひたすら追い求めるのみだ。
一日の間整頓し得るは三五次、理会(え)し得るは三五事のみ。則(すなわ)ち日に積み、月に累(かさ)ねて自然に純熟せば、自然に光明あらん。
【意訳】一日で成し得るもの、会得できるものは、わずかなものである。道理もまた同様であることを思えば、倦(う)まず、たゆまず続けてこそ、それはようやく光を放つものとなるのだ。
五刑の属三千、世の宿学と雖(いえど)も、誠に自ら日用念慮の間に細検し、能く刑外に超然たるもの幾(いくばく)か有る。一念の妄、未だ刑に即(つ)かずと雖も、而(しか)して既に刑中の人と為る。爾(なんじ)の所生を忝(はずかしめ)ずと謂(い)うべきか。況(いわん)や縦(たと)ひ幸ひ人刑を免るるも、焉(いずく)んぞ能く天刑を免れんや。故に刑を懐(おも)ふの要は、唯自訟慎独あるのみ。
【意訳】刑罰にはありとあらゆる種類がある。名望のあるすぐれた学者であっても、その日常をつぶさに点検したならば、刑罰に相当しないものがどれほどあろうか。邪悪な思いを抱いただけでは刑罰に処せられないといっても、抱いた時点で刑罰の圏内に入り込んだと言える。それは両親を裏切り、辱めることに他ならない。たとえ社会的に定められた刑を免れたとしても、天の刑を免れることはできない。刑について思うべきことは、ただひとつ。常に自らを責め、ひとりを慎むことである。
聖人の道を学ぶは、須(すべか)らく是れ胆志有るべし。其れ決烈勇猛、世間の禍福利害得喪に於ては、其の心動かすに足らず。方(まさ)に能(よ)く立ち脚を得。
【意訳】聖人の道を学ぶには、腹を決めて臨まなければならない。その態度は激しく、猛々しいものであるので、世間一般の禍福や利害などは取るに足りないものとなる。ここに至って、確固たる人格を築くこととなる。




























