泊雲と芋銭

2014.06.07
丹波春秋

 先ごろ発行の「丹波人物伝」に収録した市島町の俳人、西山泊雲は、精神的に不安定な青年期を過ごした。文学志向が強く、雄飛したいという思い。一方での、酒造場の跡取りとしての宿命。そのはざまで苦悶し、家出を試みたり、自殺未遂事件も起こした。▼そんな泊雲を救ったのが俳句との出合いだった。「自分にとって宗教のようなもの」と書いている俳句によって心の平安を得た泊雲は、父祖伝来の酒造業を守り継ぎながら、手近なものを写生する俳句に打ち込んだ。丹波に生まれ、丹波で没した。▼泊雲と親交のあった画家、小川芋銭(うせん)は、泊雲が踏みとどまった丹波の地を好み、たびたび丹波を訪ねた。9カ月間も長期滞在し、泊雲の家近くの石像寺の一室を画室にして、制作に励んだこともあった。▼芋銭は、日本の近代化の過程の中で切り捨てられ、ふるい落とされていった素朴な人間の生活や自然観を、作品の中に投影した。「河童の芋銭」の異名があるほど、芋銭と言えば河童図だが、河童はそんな自然観の象徴だったと言えるかもしれない。▼河童はいるのかと問われると、決然として「いる」と答え、「見える人には見える」と言ったという芋銭。芋銭も泊雲も、丹波で河童を見たのだろうか。泊雲と芋銭との河童談義を空想すると、何とも楽しい。(Y)

 

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