晩秋

2018.11.04
丹波春秋未―コラム

 芭蕉の句「古池や蛙飛びこむ水の音」を、「古池に蛙が飛び込む水の音が聞こえる」という意味に解してきた。しかし、それは違うらしい。俳人の長谷川櫂氏によると、「どこからともなく聞こえてくる蛙が飛び込む水の音を聞いているうちに、心の中に古池の面影が浮かび上がった」が正しいという。

 同じく芭蕉の有名な句「秋深き隣は何をする人ぞ」も間違って解釈していた。隣人は何をしているのか私にはわからない、というドライな人間関係の句と受け止めていた。

 実はまったく逆。『隣の人は今、何をしているのかな』と思いをはせる。そんな人恋しい気持ちを表した句らしい。宗教評論家のひろさちや氏によると、「隣の人に話しかけ、人生の悲しみと喜びをしみじみと語りたくなる、そんな晩秋の気持ちを詠んだもの」という。

 しみじみと感じることをいう「身にしむ」は、秋の季語だということを最近知った。秋というのは、ついつい感傷的になる季節。物のあわれをかみしめる季節であることから、「身にしむ」は秋を言い表すようになった。

 「秋深き」の句は、秋のあわれや寂寥感を念頭に入れて解釈すべきだったのに、人間関係が分断化された殺風景な現代の風景が先に思い立った。それは、物のあわれに鈍感な凡夫のためだろう。晩秋もすぐそこ。(Y)

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