「駅伝」を心の糧に
県立尼崎病院 主任調理師 林 豊(はやし ゆたか)さん (伊丹市在住)
1959年 (昭和34年) 山南町応地生まれ。 和田中、 西脇工業高、 辻調理師専門学校卒。 91年に県職員になり、 塚口病院、 柏原病院を経て、 97年から現職。
篠山市で開催された県高校駅伝大会で、 男子は西脇工業が7年連続15回目の優勝を飾ったが、 今年も後輩に声援をおくった。 同高校が初めて県1位になったときの事が今も脳裏に焼きつく。 「駅伝のシーズンになると胸がうずきますね」 と語る。 小学生のころから走るのが好きだった。 中学時代はテニス部に所属したが、 その走りを見込まれて、 1974年の第26回氷上郡中学駅伝大会に出場。 チームを3位に導く原動力になった。 卒業後は、 駅伝に力を入れていた西脇工業に進学。 1年生ながら県大会でアンカーを任され、 区間2位と力走。 チームは4位だった。 順調にいくはずだった駅伝人生にブレーキがかかったのは、 大会終了後。 肝機能障害で長期療養を余儀なくされた。 病気が完治し、 復帰後の77年の3年生の県大会では4区を走った。 当時は飾磨工業高校の全盛時代。 選手は、 「打倒飾磨」 を目標に厳しい練習に耐えてきた。 「県大会は1位でタスキを受けました。 4キロくらいで追いつかれましたが、 最後は3秒の差を付けて5区にタスキを渡しました」 と記憶をたどる。 「ここで負けたらあかんと必死でした。 渡辺公二監督の 『胸一つでも勝ったらよい』 という言葉をかみしめました」。 念願の初優勝で中学時代に夢にまで見た全国大会では、 県大会以上の不屈の精神で、 4区で7人を抜くという快挙。 チームも総合9位になった。 「療養中にマネージャーしていたころ、 『人に信頼される人間になれよ』 と励ましを受けた。 この言葉が今も支え」 と渡辺監督に感謝する。 今年の夏、 NHKテレビの 「プロジェクトX」 で当時の駅伝チームの様子が紹介された。 高校卒業後は、 好きな料理の道に。 寿司職人を経て、 今は県立病院の調理師。 「駅伝で鍛えた精神力で厳しい修行も耐えられました。 チームワーの大切さも教えられた」
(臼井 学)