徳川将軍にも献上 おせちの定番「丹波の黒豆」 その歴史をひも解く

2019.01.11
ニュース丹波篠山市歴史

「黒豆と言えば丹波」。特産品として名高い丹波の黒豆

正月のお節料理に欠かせない黒豆だが、「黒豆と言えば丹波」「丹波と言えば黒豆」を連想するほど、現在の京都府と兵庫県にまたがる旧丹波国の黒豆は広く知られている。大きさといい、味わいといい、丹波の黒豆は絶品。正月を前に、丹波の黒豆の歴史をひも解いてみたい。

 

藩主が絶賛、幕府にも献上

寛政11年(1799)の丹波国大絵図に、丹波の名産として「黒大豆(黒豆)」が紹介されている。名産と言われるまでには相当の期間が必要なので、栽培の起源は、絵図がかかれた220年前をさらにさかのぼることになる。

丹波の黒豆の中でも、兵庫県篠山市にある川北という集落で栽培される黒豆が有名。川北の黒豆が全国に知られるようになったのは、篠山藩主の松平公が江戸幕府に献上したためと言われている。

篠山藩主が川北に狩りにやって来たとき、庄屋の家で食べた昼食の中に黒豆があった。藩主は、そのおいしさに大変感心し、それ以来、川北の年貢米のうち10石は黒豆で納めるようになったという。

藩主は、川北の黒豆を将軍に献上した。将軍も黒豆の味が気に入り、数多くの家臣にふるまったため、江戸中に川北の黒豆が知れ渡った。

 

「炒った白豆植えて黒豆」と言い伝え

川北の黒豆には、こんな言い伝えがある。

「昔、旅の僧が病気で苦しんでいるのを庄屋が助け、家で養生をさせた。ところが、その年は大変な干ばつで、村の者たちは、よその僧を村に入れたためだと言って、追い出し策を考えた。白い大豆を炒って黒くし、これを植えて芽が出たら村に置く、と難題を持ちかけたのだ。すると、僧が一粒一粒まいた豆からやがて芽が出て、秋には黒豆が実った」。それが川北の黒豆だという。

篠山には、川北の黒豆のほかに「波部黒(はべぐろ)」と言われるものもある。天保2年(1831)、日置村の豪農で大庄屋の波部六兵衛が、良い種子を選んで村の各所に配って普及を図った。さらに、跡継ぎの波部本次郎が明治4年(1871)、大粒の黒豆を精選して、日置村で耕作。「波部黒」と名づけて広く市内に配布し、栽培を奨励した。

この波部黒は、明治時代の半ばに開かれた博覧会で2回も賞に輝き、審査官は「粒の形、色合い、味いずれにおいても日本一」と絶賛。宮内省が買い上げるところになり、波部黒の評価はいっそう高まった。

以来、篠山での栽培は一段と盛んになり、全国各地から種子購入の申し込みが殺到するようになった。すると、従来の「川北大豆」「波部黒大豆」という名称が支障になったため、昭和9年、「丹波黒大豆生産出荷組合」が組織され、「丹波黒大豆」と統一された。

 

古代中国では病気の治療に

昔から大豆は栄養に富む健康食品として注目されているが、黒豆も昔から咳が出て、のどが痛いときなどは黒豆の煮汁を飲むと良いとされてきた。

古代中国の聖人、神農がしるしたとされる医薬書に、病気の治療に用いる食べ物として黒豆が取り上げられているそう。400年ほど前に中国で編さんされた薬物書「本草綱目」にも黒豆の効能が書かれており、江戸時代前期に出た我が国最初の百科事典でも黒豆の効能が記載されている。

このように黒豆は昔から薬用として用いられ、▽腎臓の機能を高める▽血液の循環を良くする▽水分代謝を良くする▽解毒、解熱などの効用があるとされてきた。

健康に良い黒豆。なかでも絶品の丹波の黒豆は、正月だけでなく、普段から味わいたいものだ。

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