江戸時代に山境を巡って対立した2村の論争を解決するべく描かれた大きな絵図がある。色鮮やかな絵図には道や川以外にも、水田や茶畑、家屋など当時の村の様子も俯瞰的に描かれている。そして、ひときわ目立つ太い黒線。京都町奉行によって引かれた両村の山境だ。
食い違う主張、ともに証拠なく
1690(元禄3)年に描かれた「山論裁許絵図」(縦2メートル、横1・7メートルほど)。兵庫県丹波市春日町の棚原村と長谷村(現・国領自治会)が対立した際に描かれたもので、裏には争いの経緯や解決の理由などが記されている。
裏書によると、山論となった現場について、棚原村は古来、長谷村との「入合」(共同利用)だったと主張したのに対し、長谷村はこれを否定。ただ、双方ともに確かな証拠がなく、絵図を作成して検分した結果、長谷村の山だったことが明らかになったと記されている。その理由として▽争っている山の中に長谷村の耕作地があること▽田畑開発をした際に棚原村から異議が出なかった―の2点を挙げている。
ただ、長年、棚原村が山論の場所で刈り取りをすることに長谷村は無頓着だったとも書かれている。最後に各方面の境界が示されている。
絵図の保管「土用の虫干しすること」
別の文書によると、両村の山争いについては、氷上郡(現・丹波市)内の10人の庄屋が仲介するなどして一時的に鎮静化。しかし1685(貞享2)年、棚原村の村人が芝刈りをしようと問題の山に入り、長谷村の村人が取り押さえたという。これを機に再び両村で論争となり、領主に訴えたという。
絵図が納めてあった1845(弘化2)年製の木箱には、表に「毎夏、土用の虫干しをすること」と記されており、代々大切に保管されてきたことがうかがえる。
絵図は棚原自治会の男性が所有していたが、2010年に同自治会に寄託。昨年、同自治会に伝わる古文書などの解読作業に当たる「棚原パワーアップ事業推進委員会」(久下重幸委員長)が、専門業者に依頼して修復した。完了した2月9日、同自治会の公民館でお披露目された。
久下委員長は「大切な宝を美しく修復していただいた。若い世代に受け継いでいきたい」と話す。同委員会と連携して古文書解読に当たる神戸大学地域連携推進室特命准教授の松下正和さんは、「村人の思いや村の歴史がここまで伝わっているのは奇跡。将来への遺産としてつなげてほしい」と話していた。