終戦から74年目の夏を迎えた。戦争体験者の数が少なくなるとともに、戦争の記憶も薄れゆく。今しか聞けない証言をシリーズでつづる。
「国家存亡に関わる新兵器ができた」―。戸窓を閉め切った暗闇の中、分遣隊長が言った。
海軍の甲種飛行予科練習生(13期)で三重海軍航空隊奈良分遣隊(奈良県天理市)に配属されていた兵庫県丹波市氷上町の荻野耕一さん(91)は、16歳だった昭和19年8月はじめのある日、部隊の同期生250人とともに武道場に集められた。
分遣隊長の言葉はこう続いた。「お前たちは飛行機に乗るために志願して予科練に入ってきたが、空はあきらめ、新兵器の特攻に志願を」―。新兵器は爆薬を搭載して敵艦に体当たりする水上特攻艇「震洋」だった。
「名前を書き、熱望する者は二重丸、希望する者は〇、希望しない者は×印を」
分隊の中で最年少に近かった荻野さんも迷わず二重丸を書いた。「確認してはいないが、全員が二重丸を書いただろう。書かざるを得ない雰囲気だった」
この命を投げ出す覚悟を迫られる1週間ほど前、休暇を与えられ、故郷に帰省していた。夏服の白の七つボタンの予科練の制服は人目を引いた。
郷里でグライダー滑空訓練中の少年に予科練生活について話をした。「誇らし気な浮かれた気持ちで過ごした直後に、特攻志願を迫られたショックは大きかった」
航空兵への憧れから予科練を受験した仲間たちも、口々に不平を言っていた。
「誰が指名されるんだろう」。最初は長男が選ばれることはないだろうと噂し合った。選考に1カ月ほどかかり、通知は個別にされた。寝食を共にする5班36人のうち6人が、一足先に天理市を離れた。
ベニヤ板製のモーターボートの船首部に爆雷を積んで体当たりをする「震洋」。訓練を受ける6人が出発する前に、班長が写真屋を呼び寄せた。その時撮ったのが「別れの記念写真」になる。
「震洋」に乗った仲間3人は沖縄戦で命を落とした。6人とは別に、潜水航行し体当たりする人間魚雷「回天」要員に回された仲間もいた。
前年の入隊直後に同じ分隊だった同期と、汽車で乗り合わせたことがあった。彼は横須賀へ「震洋」に乗りに行くところだった。「訓練中、少しでも空を見ていると、お前らはまだ空に未練があるのかとしごかれる」とこぼしていたことを覚えている。
荻野さんが「震洋」に乗ることはなかった。「自分も含め、みなが覚悟していたが、いざ決まると、えっ、お前が行くのか、お前も行くのか、という感じだった」と振り返る。
わずか4カ月先に予科練に入った中学校の先輩は飛行機で特攻し、戦死。亡くなった人たちと自分を分けたものは何だったのか。
予科練に先に入った中学校の先輩と戦後、再会した。先輩も「震洋」乗員だったと聞かされた。配備先が台湾で、命拾いをした先輩は「震洋」の事は多くを語らなかったという。
「生き残りのつとめ」と、戦後、何度も各地の同期生の仏壇参りに足を運んだ。橿原神宮(橿原市)に生存同期生で建立した「殉国之碑」の前で、毎年営まれる慰霊祭に今春、参列した。
かつて1000人以上集まっていた同期は10人ほどに減っていた。「戦争を知る人間が少なくなった」ことを肌身で感じている。