昭和19年の新聞

2007.04.01
丹波春秋

 筆者誕生日の昭和19年3月27日の某紙1面コピーをプレゼントされた。「平成19年」の同じ日に見ると不思議な感慨にとらわれる。紙面は63年後とは全く異なり、戦争一色だ。▼記事の大半は、始まったばかりのインパール作戦。インドの同平原に拠る英軍をビルマ側から攻略し、いわゆる「援蒋(中国国民党軍支援)ルート」を絶とうというものだ。「皇軍、インパール平地を席巻 我が猛追に大混乱、敵二個師潰走」。「日印軍の征くところ僻村の住民積極協力」。軽快な見出しが躍る。▼ところが、史実としてはどうだったか。急峻な密林の峡谷を満足な補給線もなく無理矢理進んだ末、3ヵ月余で戦死3万、傷病者4万。大半の兵力を失い退路に白骨が連なるという惨憺たる結果に。南方戦線の敗色を決定的ならしめ、日本は翌夏の敗戦まで坂道を転がっていった。▼とすると、これらの記事は軍の発表に基づいたものにせよ、理想や希望を多分にまじえたものだったのか。とまれこの日の読者は、息子や夫の兵士が雨季のジャングルで塗炭の苦しみを味わっているとは、思いも及ばなかったに違いない。▼昭和19年には休刊を余儀なくされていた丹波新聞と言えども、同罪を免れぬわけではない。平成の紙面には判断を誤らせる記事は無用。それがコピーの贈り主のメッセージかと、受けとめた。(E)

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