終戦から75年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は柳川忠司さん(99)=兵庫県丹波市春日町野上野。
「戦地に行っていないので、これまで軍隊生活のことはあまり人に話したことがありません。しかし、同じ部隊の同僚をみな失ったことは、いつまでも心に残っています」
昭和16年(1941)、20歳のときに国民の義務だった徴兵検査を受け、近眼のため「甲種合格」ではなく「第一補充」となり、その年の4月入隊の対象からは外れていた。
京都府福知山市の福知山商業学校(現在の福知山成美高校)を卒業し、東京の商社に勤務していた昭和19年(1944)4月27日。「ショウシュウレイジョウガキタ スグカエレ」の電報を受け、翌早朝の列車に乗って実家に戻った。
5月1日、多くの人々に万歳の声で見送られて駅まで歩き、列車を乗り継いで兵庫県加西市、小野市、加東市にまたがる「青野ヶ原」にあった第49部隊(戦車隊)に23歳で入隊。「仕事で車の免許を取っていたので青野ヶ原に配属されたのでしょう」と柳川さん。同期は200人。篠山や福知山よりも小規模な部隊で、丹波地域の人はおらず、関東の人が多かったという。
50人ずつの班が組まれ、柳川さんは第1班に所属した。入隊後、まず課せられたのは「軍人勅諭」の暗記。「我が国の軍隊は…で始まり、軍隊の内容が全て書かれた長い長い文書で、早く暗記した者でも5日はかかった」という。
班の訓練を指導するのは、軍曹、伍長、上等兵、1等兵の4人だったが、手が足りなかったため、班で唯一の商業学校卒者だった柳川さんも指導係に任命された。手旗信号をはじめ、ほとんどの訓練内容は商業学校時代に習っていた。
突撃訓練、射撃練習、ほふく前進、行軍など、激しい訓練が毎日続いた。「特に、35歳以上の年配兵には酷な訓練でした」と振り返る。「20代前半の若い上官には年配兵の体力が分からないため、どうしても見劣りしてしまい、訓練で成績が悪いとひどい扱いを受けていたこともありました」
日曜日は自由に外出でき、家族との面会が何よりの楽しみだった。
戦地行きの命令が出ず、内地勤務が続く中、「若い兵隊を教育するのもご奉公」と考え、昭和20年(1945)3月、幹部候補生に志願。翌4月、部隊に沖縄行きの命令が下ったが、幹部候補生に合格していた柳川さんは半年間の訓練を控えていたため、十数人の隊員と共に留守隊として残り、同年5月に九州・小倉へと移った。
沖縄へ向かった青野ヶ原49部隊が、海上で敵の艦砲射撃に遭い、上陸できずにほぼ全滅したらしいと聞いたのは、ずいぶん後になってからだった。
小倉で教育中には、戦闘機による機銃掃射を受けて戦死した兵もいた。「考えられないようなところで戦死する人もあった」。内地に残っていても、死は隣り合わせだった。
8月15日の玉音放送で敗戦を知ったときは「まさか」と驚いた。「日本は勝っているとばかり思っていました。一般の人なら戦況を多少知っていたかもしれませんが、軍隊の中にいたら一切分かりませんでした」
9月には大きな台風が来襲。電車の不通区間は線路づたいに歩き、途中で台風被害地の奉仕作業をしたりしながら、家へ帰り着いたのは10月3日のことだった。「戦友たちは、みな無事で帰って来てくれたかなぁ」とぼんやり思っていたと話す。
胸元の星の数が一つ違うだけで、どんな暴力をふるわれても口答えできず、白を黒と言われれば黒で通さなければならない―。「軍隊は他にはない、本当に厳しい社会だった」。軍隊生活の細かい部分まで記憶に残っている。
小学校の同級生で、今生きているのは柳川さんを含め数人しかいないといい、戦後75年が経ち、従軍体験を共有する人は少なくなっている。
「私は運の良い人間だったと思いますが、多くの同僚を失ったことは残念でなりません。戦争が二度と起こらない世の中になることを願っています」