兵庫県丹波市氷上町の郷土史研究家、上島成和さん(85)が、「古文書の語る加古川の舟運」を出版した。滝野(同県加東市)の商家に残る膨大な古文書を読み解き、新しく見つけた文書の記述から、江戸時代中期に立案された、由良川と加古川を通り丹後―丹波―播磨を結ぶ「北国廻船川筋通船計画」の背景に、悪化した財政を米価政策によって建て直す江戸幕府のもくろみがあったとする、従来なかった新説を唱えている。
加古川下流の滝野舟座(加東市)の支配人だった阿江家に残る膨大な文書(1623―1884年)のコピーを、同県小野市の好古館(歴史博物館)で撮影。300点以上の文書を撮影した千数百枚の写真を、古文書研究会の仲間と読み解いた。
北信越の米を大阪に運ぶのに、船で下関を回る「西廻りルート」ではなく、丹後と播磨を船で結ぶ短縮ルートの実現を目指す「通船計画」立案者として知られている岡本善八が、従来言われていた大阪商人ではなく、江戸から来た商人である事を突き止めた。
岡本の住所が、「宝永六年(1709) 江戸室町弐丁目」とある文書を発見。これまで「宝永七年(1710) 大阪天満老松町」の文書を根拠に、岡本は大阪商人とされてきたが、より古い時代の文書を見つけ、岡本が、短縮ルート実現のために江戸から大阪へ引っ越してきたと推測した。
上島さんは、岡本は「幕府に派遣された」と自説を構築。当時、米の売買は大阪で行われており、低い米価によって財政が苦しくなった江戸幕府が、大阪商人に代わって、江戸から商人を派遣し、米価を上げようとしたと推測。米価を上げるためのてこ入れ策が、加古川運搬ルートの開発だったとの説を発表した。
根拠として、河村瑞賢が1672年に開発した、下関を経由する日本海「西廻り」ルートは、冬場は荒れ、航海できない日が多く、秋に収穫した北信越の米を翌年の春まで荷揚げできない問題があった。より近道の由良川―加古川ルートを開発することで、遭難の心配なしに安全に輸送ができる。これにより、大阪商人が持っていない、より新鮮で高品質な米をより高値で販売し、米の年貢収入がよりどころの武家、幕府財政を好転させようと考えた、との説を展開している。
岡本の計画は、久美浜(京都府京丹後市)で見つかった元文元年(1736)の文書にも記載が見られるなど、計画自体は長く生きていたが、日の目を見ることはなかった。
上島さんは「結局、江戸の商人に任せても米価は上がらず、享保の終わりごろから幕府が米価の公定価格を設けるなど、強硬手段に出た。米価政策が転換したので、川筋を通す必要がなくなったのだろう」とみる。「従来の大阪商人説では説明がつかなかった部分が、これで説明できたのでは」と胸を張った。
このほか、幕末の文久元年(1861)―慶応元年(1865)にかけて、丹波市青垣町の材木(ヒノキ約1000本、松100本、スギ96本)が筏を組んで、春日大社(奈良)、京都御所、京都代官所や、遠く水戸まで運ばれていたことなど、従来明らかになっていなかった史実を見つけた。
同書は、400字詰め原稿用紙600枚にまとめた労作。上島さんは、江戸時代に、地元の本郷を流れる加古川に存在していた舟座(現在の税関のようなもの)を取っ掛かりに研究を始めた。
定価2700円(税別)。
明治初期には運河計画も
由良川と加古川を結ぶ舟運計画は、江戸中期の岡本善八の計画のほか、明治初期にも立案された。上島さんは、明治の計画も、「古文書の語る加古川の舟運」で資料に基づき史実を丁寧に掘り起こしている。岡本の計画は、由良川を京都府福知山市榎原まで遡上し、穴裏峠を人馬で陸上輸送、丹波市青垣町で再び船に荷物を積み、加古川を下るものだった。明治の計画は、加古川に運河を設けるもので、同市氷上町市辺、横田、石生新町から春日町船城地区の黒井川(由良川の支流)と結ぶ「氷上回廊通船計画」だった。
明治の計画は、明治元年(1868)に、同県多可郡の百姓で、中農上層階級に属する村上清次郎が発案した。加古川の通船難所の多可郡と加東郡(現加東市)にある滝を掘削することと、穴裏峠を陸送するのでなく、加古川と由良川を結ぼうと兵庫県郡政局に申し出た。翌年の多可郡110カ村の総意の申し出を、兵庫県は「即刻採用」とした。その後、漁場の争いや通行料の取り扱いを巡るやりとりを経て、通船難所の開削工事が行われた。
村上は明治6年、詳細に実地調査して「氷上回廊通船運河開削ルート」の舟路を策定し、飾磨県権令(知事)に「万代不易ノ国益蒼生ハ産業ヲ開ク」と、開発を願い出た。取水口は、氷上郡(現丹波市)の氷間下村(市辺村)を左岸として佐治川(加古川上流域の別称)を分流させ、市辺から横田へ切通し、現在の横田交差点の「南方70間」(約130メートル)の所で分水する。一方は柏原川に流し、もう一方は現在の石生新町の交差点近くの小峠を切り開き、船城から黒井川、竹田川、福知山城下で由良川と合流させる。これによって由良川と加古川が、高瀬舟が行き来する一本の通路になるとした。役人が同年、市辺や横田の見分に来た。
村上は、明治10年に神戸出張中に、西南の役の帰還兵から広がったコレラに感染し、死亡。村上の死もあり、計画は日の目をみなかった。
加古川の舟運は、明治15年ごろにピークになったとみられ、10トントラック115台分に相当する物資を輸送した。阪鶴鉄道(明治32年)、播州鉄道(大正2年)の開通で役目を失い、竹木筏を流すのみとなったが、これもトラック輸送にとって代わられた。