兵庫県丹波市市島町上垣の山中に4つのクレーター状の巨大陥没穴がある。木々が生い茂る尾根道の両脇に突如として現れる陥没穴は、直径10メートル内外、深さ3―5メートル。長年、地域住民から「何の穴やろ」とさまざまな憶測が飛び交うミステリースポットとなっていた。「市島町史実研究会」の会員3人が調査を行ったところ、「硅石(けいせき)採掘のために掘った坑道が崩落した跡」ということが判明。軍艦や砲弾などの製造になくてはならない鉄鋼を生産するために硅石は欠かせない物で、人里から遠く離れた山の中に眠る巨大陥没穴は、忘れ去られた戦争の記憶だった。
地元ではこの陥没穴について▽明智光秀の丹波攻めの時、鹿集城主が逃げ延びる際に財宝を埋めた▽地下が質志(京都府京丹波町)から続く鍾乳洞になっており、それが陥没した▽国指定史跡・三ツ塚寺院(約1300年前建立)の瓦を焼くための薪を作る木こりたちの住居跡▽隕石落下跡―など、さまざまな説が語られていた。
真実に迫ろうと立ち上がったのは、同研究会会長の井上英道さん(79)、岩石に詳しい井上正直さん(78)、地元自治会長でもある永井直樹さん(67)。
現場は、上垣集落の中の小字名「今寺」の山中。パラグライダーのテイクオフ場として知られる横峰山(高谷山)山頂に続く、つづら折りの途中に車を止め、徒歩で尾根伝いに南東方向へ20―30分進むとたどり着く。
尾根の両脇に2つずつ陥没穴がある。100年ほど前、この地域一帯で大量の硅石が産出された歴史があるため、坑道が陥没した跡ではとにらんだ3人。正直さんは、「左右それぞれの陥没穴は尾根をまたぐかっこうで地下でつながっているのでは」と推測し、「尾根道の両脇は谷へ向かって傾斜しているため、尾根のそばに坑道を掘ると天井部分がどうしても薄くなり、崩落しやすい」と説明する。
さらに周囲を調べてみると、ミステリースポットの陥没穴の規模をはるかにしのぐ大きな坑道崩落跡や露天掘り跡が、上垣と尾根で分かつ隣集落「岩戸」の山林で数カ所見つかった。露天掘り跡では、大きいもので落差約30メートル、幅約35メートル、奥行き約15メートルもあった。
露天掘りが限界に達すると坑道掘りに移るため、露天掘り跡の下部に坑道の入り口があるはずと推測し、斜面を降りてみると予想通り、山腹にぽっかりと口を開けた穴(坑口)が見つかった。
その数ざっと10カ所。崩落で入り口の大部分が埋まっているものの、直径が1・7メートル四方もある大きな入り口もあり、その周囲には苔むした石垣も見て取れる。「まるでアリの巣やなあ」。足元には赤色と白色が入り混じった「霜降り肉」のように見える硅石がごろごろと転がっている。
大正初期、日本は軍備拡張政策を進めるため、大鑑巨砲主義をとり、大量の鉄鋼が必要となった。九州の国営・八幡製鉄所の大拡張、横須賀、呉、佐世保、舞鶴などの海軍工廠(こうしょう)の製鉄部は新設・拡張により、大量の溶鉱炉用耐火れんがの需要に迫られ、それに伴い、硅石の需要も高まった。採掘エリアは、市島町はもとより、同市春日町や丹波篠山市、京都府福知山市、福井県・若狭などにも広がった。
永井さんらの調べによると、「今寺」での採掘時期は、大正14年(1925)から昭和4年(1929)頃という。3人は、「地域の歴史をまた一つ、ひもとくことができた。残念ながら期待していたお宝は埋まっていなかったが、代わりに一獲千金を狙った男たちのロマンを垣間見ることができた」とほほ笑み、「ここに看板を立て、地域の歴史のひとこまを記録したい」と話している。