戦国の雄細川幽斎縁の寺院である。元和年間(1615―24)、宮津藩主京極高広が舞鶴の田辺藩から移るときに、ともに来た明誓上人が創建した名刹である。寺院には貴重な文化財も多い。本尊は快慶の流れをくむ仏師の手によるものであり、内陣の襖絵は、狩野派の佐藤正持の筆になる「源氏物語澪標図」である。下陣欄間にも与謝蕪村の手による経ガ崎の波涛の図の彫り物がある。また八角堂は現在の聖徳太子堂として、昭和12年に宮大工として水上勉の父が携わった。
山門の彫り物が目に入る。狭い梁の間に色彩が地味になってしまっているが、龍が設えてある。3つの爪で握った宝珠が大きい。髭は銅線を左右に長く伸ばしている。木鼻の唐獅子と獏はやや造作が大振りである。ほかの狭い梁間にも麒麟が躍動している。6代目中井権次正貞の最晩年の彫刻である。中井一統11代目の中井光男さん宅から至近の所の寺院である。
元高校教諭 岸名経夫