この連載は、中世を生きた「丹波武士」たちの歴史を家紋と名字、山城などから探ろうというものである。
丹波細見氏は、古代の伝説的人物・武内宿禰(すくね)の後裔という紀長谷雄(きのはせお)の子孫と伝えられる。『幻の鎌谷城と丹波薬師寺』によれば、紀忠通が寛弘二年(1005)に天田郡(現京都府福知山市)長谷(細見谷)に流され、細見谷に土着した子孫が細見を名乗ったのだという。
菟原(うばら)や細見谷には紀忠道の隠棲地という所があり、天田郡から多紀郡(現兵庫県丹波篠山市)にかけて細見氏の祖・紀氏を祭神とする梅田神社(春日神社)七社が鎮座している。また、梅田七社が祭祀されている菟原・細見・草山・藤坂・梅田は合わせて「五個荘(ごかのしょう)」と呼ばれる摂関家渡領(わたりりょう)であった。細見氏は菟原庄の荘官に任じて力を蓄えると、五個荘域に勢力を拡大していった。梅田七社のうち、高杉春日神社の大永五年(1525)の棟札にみえる紀山城守家成は細見氏であろう。中世武家の多くが「源平藤橘」を称するなかで、細見氏が紀姓を称しているのは、いかにも真実めかしいといえそうだ。
さて、いまも丹波国西部に集中する細見名字の家紋をみると「三つ星に半菊」または「三つ星」である。前者の由来は、丹波守護職細川氏の「九曜」紋のうち三つをもらい、それに紀貫之からもらった菊紋を合わせたと伝承しているが、にわかには信じがたい。後者の「三つ星」は三武、将軍星と呼ばれるオリオンの三つ星を象ったもので、多くの武家が信仰し家紋に用いた。武家の家紋の在り方からすれば、遠目にも判別しやすい単純明快な「三つ星」が細見氏の定紋だったのではないか。菊花は後世に付加されたものと思われる。
細見氏の歴史は不明なところが多いが、室町時代、細見大丞が室町幕府の管領・細川頼之に仕え、菟原から草山にかけて十六村を知行するようになったという。戦国時代、多紀郡本郷から天田郡の三和、船井郡の鎌谷に細見氏の城砦が散在、細見氏惣領が拠ったのは本郷草山城であった。細川京兆家が分裂した「両細川氏の乱」に際して細見山城守は高国方に属し、享禄四年(1531)天王寺の戦いで討死したと伝えられる。
やがて、波多野氏が台頭するとその麾下に属するようになった。天正四年正月、第一回の丹波攻めに敗れ黒井城から敗走した明智光秀を、細見将監(しょうげん)信光は八百里(やおり)城主畑氏と鼓峠に待ち伏せして窮地に陥れたという。しかし、天正七年六月に波多野氏が敗れると、細見将監父子は草山城で自害して滅亡した。
【草山城】 細見氏の菩提寺松隣寺後方の山上にあり、丹波篠山市の川坂、桑原方面が眺望できる要衝を占めている。山上の曲輪群を堀切で分断、防御する大味な造りである。また、『丹波志』には本郷集落の台地に里の館があったと記されている。
(田中豊茂=家紋World・日本家紋研究会理事)