天皇暗殺を計画したとして幸徳秋水ら社会主義者や無政府主義者が死刑に処せられた大逆事件から今年でちょうど100年。のちに日本アナーキスト連盟を結成した市島町上竹田生まれの近藤憲二が、旧制柏原中学校(現柏原高校)3年のときだった。▼近藤の著書『一無政府主義者の回想』によると、大逆事件の判決が出た1911年1月18日、号外が出たことにふれつつも、「それより学校騒動の方がもっと関心事だった」としるしている。学校騒動とは、校長らの排撃運動である。▼3年生と4年生が血判状を作成し、2月22日、同盟休校を決行することになった。その日の夜7時に集合所に集まる手はずで、近藤も友だちと集合所へ急いだが、事前に察知されたとみえ、集合所付近には先生らがいた。やむなく退散。近藤をはじめ、ストライキに加わった生徒たちは多可郡に逃げ、寺に腰を据えた。しかし、先生たちが迎えに来て談判の末、連れ帰られた。▼3年と4年の全員に無期停学の処分がくだり、1週間で停学は解かれた。同書では、この騒動を振り返り、「若気のいたり」としているが、当時の学生気質がうかがえるエピソードだ。▼大逆事件から100年。現在の視点から大逆事件を問い直す動きが見られるが、学生気質は、現代とは隔世の感がある。(Y)