「坂の上の雲」。司馬遼太郎の代表作の一つで、伊予松山藩出身の軍人、秋山真之・好古兄弟や俳人の正岡子規の視点から明治期という時代や、日清、日露両戦争などを描いた歴史小説だ。100年以上前、当時の戦争には兵庫・丹波地域からも多くの人が出兵し、戦禍に巻き込まれている。現在、原作をもとにしたドラマがNHKで再放送中。そんな折、「丹波篠山市にもつながりを感じさせる物が残っとるで」と情報提供があった。市内に残る“坂の上の雲の痕跡”を歩いた。
日清戦争は1894年(明治27)7月から翌年4月まで、朝鮮半島を巡って日本と清の対立が深まって起きた。日露戦争は1904年(明治37)2月―翌年9月に、日本とロシアが朝鮮と南満州(中国東北)の支配を巡って激突した。今年は日露から120年の節目となる。
作中で描かれる日露戦争は、新興国の日本がロシアに挑戦し、勝利したことで世界の注目を集める一方、思想家の幸徳秋水らは非戦論を唱え、俳人の与謝野晶子は「君死に給ふこと勿(なか)れ」と詠むなど、厭戦(えんせん)の空気も広がった。
「こんな所につながりがあるなんて全然知らなかった」―。そう話すのは、ドラマを視聴し、原作を2度目の読書中という森田恭弘さん(65)=川原=。福住地区川原集落の住吉神社入り口にそびえる石柱には「住吉神社 伯爵東郷平八郎書」とある。
東郷平八郎は薩摩藩出身で、元帥海軍大将になった人物。物語にも主要人物として登場し、秋山真之が作戦参謀を務め、当時、最強とうたわれたロシアのバルチック艦隊を破った「日本海海戦」(明治38年)で連合艦隊司令長官を務めている。
石柱には大正7年(1918)5月とあり、日本海海戦から13年後、東郷70歳の頃の書となる。 側面には「明治十丁丑年氏子同歳者建之」と彫られ、明治10年生まれの同級生と思われる人たちの名が刻まれている。同神社の社務所には、石柱と同じ筆跡の東郷の書が掲げられており、この書を基に石柱が作られたとみられる。
東郷の書は全国各地に残されているが、丹波篠山とはどんなつながりがあったのか。そのヒントになりそうなものが、城北地区の澤田八幡神社(沢田)にある扁額(へんがく)。同じく東郷の書だ。
「八幡神社 伯爵東郷平八郎書」とあり、裏面には、「日露開戦の際に帝国海軍の武功を奏し、我が国の威信が世界に輝きたるは東郷大将の軍配の賜物。その勲徳を慕い、書の揮毫(きごう)を乞い願い掲出した」という意味の文章が書かれている。住吉神社の石柱より少し前の大正2年(1913)のもので、「下河原町 平尾織之助」の名がある。
市教育委員会社会教育・文化財課によると、この平尾は、丹波篠山出身の南画家「平尾竹霞」のこと。画壇の重鎮として活躍し、多くの文人墨客と交わった。
この平尾と親交が深かったのが、同じ丹波篠山出身で陸軍大将にまでなった本郷房太郎だ。篠山藩士の家に生まれた本郷は、平尾の4歳年下で、共に藩の学者、渡辺弗措の門人。日露戦争に出征したほか、陸軍士官学校では秋山好古の同期で1930年(昭和5)に好古の最期をみとったともされる。
本郷と東郷、同時代を生きた軍部の主要人物が旧知の仲なのは間違いない。同課は、「本郷さんと丹波篠山とのつながりは数多く、平尾さんも本郷さんを通じて東郷さんに揮毫をお願いしたのかもしれない」と推測する。両地区には本郷が揮毫した同じ忠魂碑が立つ。
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