児童福祉の先覚者としてたたえられる、兵庫県丹波市出身の大野唯四郎が1875年(明治8)に創設した社会福祉法人「愛育社」(大阪府堺市)が150周年を迎え、同法人の井上伸二郎理事長と職員ら6人がこのほど、唯四郎が孤児救済施設を創設した丹波市市島町を訪れた。竹田コミュニティセンター(同町中竹田)内の歴史資料室で活動する、竹田温故の会の青木正文さん(82)、細見洋二さん(75)と共に、唯四郎が歩んだ人生について学んだほか、唯四郎が理念として掲げた「愛育」が色濃く残る場所を巡った。
同法人は児童養護施設「愛育社」、認定こども園「久世こども園」、乳児院「愛育社めばえ乳児院」を運営。150周年の記念誌作成のため、昨年8月に同町を訪れたことをきっかけに、「愛育」のルーツや児童福祉の原点を学ぼうと今回の訪問を企画。全施設の職員約50人が、11月まで5回に分けて訪問する。
幕末から明治維新にかけての動乱期、その日の苦しい生活にあえぐ農民たちの間に子どもを捨てる悪習が広がった。唯四郎は、その孤児が放浪するといった悲惨な状況を目の当たりにし、心を痛めたという。
青木さんが作成した「大野唯四郎『愛育の里』訪問の栞」によると、唯四郎は1875年(明治8)、井上三登路(井上理事長の曽祖父)らと共に、現在の愛育社の原点となる孤児養育施設を大阪市に創設。施設創建のための資金は、家財道具を売り払う「せり市」で捻出した。78年(明治11)に上京し、明治文化の先覚者、岸田吟香らと交流を深めた。翌79年には、市島町下竹田村に孤児養育施設を創設。吟香の命名で「愛育堂」と名付け、3月16日に開堂式を迎えた。同年10月時点での同施設育児名簿には、27人の孤児の名前が記載されていた。唯四郎の死後、後継者がおらず、同施設は閉鎖されたという。
唯四郎の功績と「愛育」の精神は、旧市島町へと継承され、体育館に「愛育館」の名が付けられるなど、なじみ深いものとなっている。
一行は同コミセンで、青木さんから説明を受け、唯四郎の人生を振り返った。同法人保育士の川上佳晃さん(38)は「働きながら会社名の〝愛育〟がどこからきているのかなと思っていた。今回の訪問でルーツを辿ることができて良かった」と話した。
この他、唯四郎の生きた証しが残る「史跡 愛育堂址」(同町下竹田)、「愛育」の木額が掲げられている竹山小学校など5カ所に出向いた。
井上理事長(67)は「創設者の大野唯四郎が育った土地や記念碑を見たいという思いで訪れた。『子どもたちを慈しんで育てる』という愛育の理念を念頭に置いて、これからも愛情を持って育てていきたい」と語る。
青木さんは、「愛育社のホームページの冒頭に、大野唯四郎が設立したという説明書きがあり、愛育社の原点として思ってもらえているのだなと感じた。とてもありがたいこと」と話した。
【大野唯四郎】 1839年(天保10)1月、氷上郡上新庄村(現・丹波市氷上町上新庄)で土倉家の9人兄弟の5男として誕生し、23歳で下竹田村(現市島町)石原の庄屋、大野三郎兵衛の婿養子となった。1875年(明治8)、私財を投じ、大阪市に愛育社の原点である孤児養育施設を創設。その後、京都、長崎などにも養育施設の開設に向け奔走するが、1884年(明治17)、永平寺(福井県)方面を行脚中、山中で死去。享年45歳。
























