寂しさとひもじさ 農村へ「学童疎開」の歴史たどる カエル「3匹までは美味」

2025.08.24
地域歴史注目

元疎開学童が宝林寺に届けた写真。撮影は昭和20年5月以降。写っているのは下坂部国民学校の2年生と5年生とみられる(同寺提供)

太平洋戦争の中、都市部の子どもたちは田舎へと疎開した。いわゆる「学童疎開」だ。兵庫県丹波市にも多くの子どもたちが身を寄せた。終戦から80年がたった今、さまざまな資料や証言をもとに、その歴史をたどる。

「夜中に逃げて帰る子がいて、叔父が石生駅や柏原駅(現・JR福知山線)まで探しに行った話は聞いている。『疎開児童用』と書いた番重(ばんじゅう、運搬容器)もあった。でも、父は学徒動員で出征中で、私が小学校に上がるか上がらないかの時に亡くなった祖父が住職だった頃のことだから、詳細は分からないなあ」と言いながら、宝林寺(同市青垣町栗住野)の飯田正人住職(69)が色あせた3枚の白黒の写真パネルを見せてくれた。

丸刈りの少年が輪になり境内で遊んでいる様子、参道で掃き掃除や草引きをしている様子、そして集合写真。学童服を着た子が多い。年端もいかない子もいる。40年以上前、昭和の時代に「ここで疎開していた」と訪れた人が写真を持ってきたことで、昭和20年に疎開していたのが同県尼崎市の児童と分かった。「1回集まれたらよろしいね、と言ってそれっきり。うちでどんなふうに暮らしていたんだろう」

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太平洋戦争末期、アメリカの空襲から子を守る、また、防空上の足手まといにならないよう、都市部の子を農村に疎開させた「学童集団疎開」。児童を受け入れた兵庫・丹波地域に資料や記録は乏しいが、児童を送り出した尼崎市に公文書や疎開した本人、引率者の手記などが残っている。

学童疎開は、親類や知人を頼る「縁故疎開」と、学校単位で実施する「集団疎開」がある。「集団疎開」は1944年(昭和19)6月の閣議決定「学童疎開促進要綱」に基づいて行われた国策。縁故を先行させ、縁故の避難先がない学童を集団疎開させた。

全国で13都市が指定され、兵庫県内は神戸市と尼崎市が対象になった。疎開先となる自治体は県が指定。尼崎市は氷上(現・丹波市)、多紀(同・丹波篠山市)、多可、川辺(同・川西市、猪名川町など)の4郡だった。神戸市は但馬・播磨地域や一部は県外。丹波地域への学童集団疎開は尼崎市の9校だ。同市の集団疎開学童は計約8000人、疎開先は175カ所に及んだ。

45年(昭和20)5月「尼崎市 学童集団疎開宿舎一覧」から、宿舎と各施設の男女、学年別在籍者数が分かる。丹波地域の宿舎は100(氷上郡46、多紀郡54)。氷上郡はこの時、児童1758人を22町村内の宿舎で受け入れている。児童数は変動した。

尼崎市以外の国民学校が丹波地域に疎開した例があるが、規模の大きい縁故疎開とみられる。

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氷上郡の宿舎の4分の3が仏教寺院。和田村也足寺の97人は、この時点で尼崎市4郡の集団疎開先で最も児童数が多い。寺院以外では、宿や公会堂、教会、神社もあった。宿舎の選定は、尼崎市の教職員が各施設を訪れ、折衝。宿舎になった施設には幾ばくかの借り上げ料が支払われた。原則、男女別だったが、同じ所もある。

宿舎は生活の場「寮」と、教育の場「分教場」(尼崎が本校で、分校の扱い)と2つの役割を担った。分教場で授業をするが、週1回は地元の国民学校への登校が義務付けられた。地元の児童と集団疎開の子の授業は別で、一緒に学ぶ「混合学級」はつくらなかった。子ども同士の交流は、学校を離れた場所で個人的に行われることが主だったようだ。

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詳細なデータが記載されている「尼崎市 学童集団疎開宿舎一覧表」©尼崎市立歴史博物館あまがさきアーカイブズ

集団疎開は2次に分かれて実施。1次が3―6年生。44年8―10月に5度実施。氷上郡に最初に疎開学童が訪れたのは、8月23日に柏原町、黒井村に向けて出発した杭瀬国民学校とみられる。戦況のさらなる悪化を受け、45年4月に始まった2次で、1、2年生ら残留児童も疎開。この時、宿舎が追加された。浜国民学校は、1次で竹田村石像寺、吉見村鴨神社と梶原公会堂、2次で1、2年生と残留者が前山村、美和村と吉見村上田公会堂に疎開した。

児童は計画的に移送された。わが子に道中食べられるだけの食料を持たせる親もあったようだ。

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生活は配給頼り。供出があり、農村部の丹波地域も食料事情は厳しかったため、食べ盛りの子が地元の子以上に空腹を抱えながら過ごした。親に会えない寂しさも募り、疎開生活はつらいものだった。また、家庭と学校で分かれていた生活と教育を一身に引き受ける職員や寮母の苦悩は非常に大きかった。

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尼崎市は大阪大空襲の45年3月13―14日にかけての夜間空襲から10度にわたり焼夷弾攻撃などを受けた。当時の市域の戦災被害は、死者479人、罹災者4万2094人としている。

多紀郡篠山町の寺院に集団疎開した女子児童の食事風景©尼崎市立歴史博物館あまがさきアーカイブス

氷上郡の市島地域に疎開した浜国民学校は空襲で焼失。終戦後、再建せず廃校になっている。氷上地域に疎開した開明国民学校は、同年6月1日にB29の援護で飛来したP51戦闘機とみられる機銃掃射を受けた。弾痕が残る塀の一部が阪神尼崎駅近くの公園で、尼崎市の戦争遺産として保存されている。

集団学童疎開は、親元を離れて慣れない土地で暮らす寂しさと、ひもじさに耐える必死の共同生活だった。氷上郡に疎開した尼崎市の児童の暮らしは、「尼崎市戦前教育史」(同市教育委員会、2003年)や、「藤田浩明氏文書」(同市立歴史博物館所蔵)に詳しい。

寺院や公会堂などの寮生活は、午前6時の起床から就寝まで規則的なものだった。朝食前に体操、皇居に向かって敬礼する「宮城遥拝」、尼崎市に向かってあいさつ、といった具合。午前中は教科の授業があり、午後は薪取りや農作業など自給の取り組み、野菜を供出してくれる地元農家への「奉仕」などに従事した。

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食費は保護者が月額10円を支払い、残りは尼崎市が負担した。米や調味料は配給、青果物は地元調達。引率の教師、寮母、食事担当の炊事作業員は、少ない配給で食べ盛りの子のお腹を満たすのに頭を悩ませた。

芦田村・宝林寺の境内で輪になり遊ぶ下坂部国民学校の児童。遊ぶ時間も決められていた(同寺提供)

「教育史」に、44年(昭和19)8月から柏原中学校の寄宿舎で集団生活をした杭瀬国民学校の児童(昭和20年3月卒業)の思い出が掲載されている。「盛り切りの食生活で、食べ盛りの私達にとっては、いつも空き腹をかかえて学習に、作業にという生活でした」。盛り切りは、お代わりなしの意。「親からのおやつ的な食べ物を送ってもらうことは固く禁じられていました。私達は、調味料的なゴマ塩、カレー粉などを送ってもらい、それを舌なめずりして、空腹をしのぐありさま」

当時の同校5年生も「駅前の薬屋さんにお腹のたしになる薬があると聞けば、ワカモト(胃腸薬)から梅肉エキス(梅肉のみの整腸剤)まで、口当たりの良いのは売り切れるまで買い尽くした」。

また、「終戦直前には、田んぼ畑に跳んでいる普通の蛙を、自分で皮をはぎ、塩焼きにして食べた経験、これは三匹までは美味、五匹以上は青臭さが鼻について食べるのは無理」としたためている。「土地の芋畑に夜盗みに行った」の告白も。

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ひもじく寂しい生活に耐えかねて逃げ出す集団もあったが、連れ戻された。遠距離の鉄道切符は割当制で無秩序に保護者の面会を許すと不公平が生じることから、県が制限を課しながら各学校にルール化を求めた。面会が決まると親は何とか食べ物を工面し、こっそり子に食べさせた。

ごくたまの面会以外の親との連絡は手紙やはがきのやり取り。44年8月から氷上郡幸世村の円通寺で開明国民学校の児童と寝食を共にした教諭は日記に、「元気だと書いてベソをかいている」と、気丈に振る舞う子の姿を書き留めている。「一日中の一番たのしい時は手紙の来た者の名前を呼んでもらう時らしい」とも。

児童の短歌も紹介している。率直に家族への追慕を詠んだ歌

「うれしきは 家から手紙 きているとき 私にこづつみ きているときなり」

「窓ごしに 月を見るたび 故郷を どうなるのかと 心に思う」

軍国少年の

「国の為 篠山へきて よく育ち 英霊の仇 われらが討たん」

「先生と 松茸かりに 芋堀りに 共に楽しむ 集団生活」と、生活の苦しさを感じさせないものもあった。思いや感じ方は人それぞれだ。

竹田村石像寺に疎開していた浜国民学校の河村徳太郎さんが実家に宛てた手紙とはがき。「こちらの朝は霧が深かいので寒いです。私はしゃつとたいさう服と服と三枚もきてをります」と、冬服を送るよう頼んでいる©あまがさきアーカイブス

終戦から3カ月後の1945年(昭和20)11月ごろ、氷上郡からの引き上げが集中的に行われたようだ。11月8日、竹田駅午前11時56分発と、12時9分発の臨時列車が、城内、下坂部、浜の3国民学校の200人を神崎駅(現・JR尼崎駅)まで運ぶ予定表がある。途中、多紀郡内に疎開していた児童が乗車したとみられる。

出発前に世話になった町村で別れの式を開き、帰校後も式の後、保護者に児童が引き渡され、集団学童疎開は終わった。

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尼崎市青少年団長が、学童集団疎開が始まるのに際して出した指導要綱方針は「疎開学童に対し各種の教養訓練を通じて熾烈なる士気の昂揚に努めしむること」「疎開地に於ける大自然を活用して剛健なる心身の鍛錬を行い進んで全生活を生産化し以て其の生活力を豊ならしめ戦力増強に挺身せしむること」。集団疎開が「児童の命を守る」以外の目的に使われていたことが伺える。

「兵庫県大百科事典」(神戸新聞出版センター編、1983年)の学童疎開の欄には、「実は『次代の戦力の培養』が真の目的であったことを知らねばならない」と記述されている。

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