北近畿みらい塾で福知山城を見学。明智光秀の居城にしては随分小さいと思っていたが、元は西方にある現市役所裏手の伯耆丸公園まで高台が続き、全て敷地だったとか。廃城後、市役所付近の二の丸台地をごっそり削ったそうだ。土で外堀を埋め、道路も通ったが、今となっては残念ではある。▼光秀公研究会の山口正世司会長の講演を聴いた。光秀は暴れ川を付け替えて町を水害から守り、地税や年貢を免除。わずか2年の治世にもかかわらず御霊神社に祀られる所以だ。▼足利将軍に師と仰がれた愚中周及という高僧が天田郡の奥の天寧寺にいた。光秀は築城の際、近隣の寺々から石垣用に墓石塔頭類を集める令を出したが、この寺には手を付けさせなかった。他の寺からも様々な寺宝がここに持ち込まれた。光秀が信義の人であるとわかっていたからだ。▼本能寺の変後、10日余りの天下の間にも、京都の町衆に地税免除のお触れを出し、周辺でも同様のことをした。盆に彼の霊を慰める風習が福知山以外の各地に残るという。▼信長に背いた動機についても、「権力が目的でなく、心の通う政治を志したからではないか」と山口さんは話す。光秀を大河ドラマにする運動が北近畿で広がっている。知らなかったことばかりだが、実現すれば謎多い人物像がかなり浮かび上がるだろう。(E)