夏の高校球児たちの活躍で、また野球人気が復活してきた。ところで、近代俳句の父、正岡子規が草創期に野球の普及に大いに尽力したことは聞いていたが、没後100年の2002年、野球殿堂入りまで果たしたことを、すっかり失念していた。▼俳人、坪内稔典氏によると、東大予備門の学生時代を「ベースボールにのみふけりてバット1本、球1個を生命の如くに思い居りし時なり」と回想し、幼名の「のぼる」をもじって「野球(の・ボール)」という雅号までつけていたという。▼故郷の松山では当時のままのルール、いでたちでプレーする「の・ボール野球」を復活させ、母校の松山東高(旧松山中)OBが松山商OBや、子規の後輩でベースボールを最初に野球と訳した中馬庚(かのえ)が校長をしていた徳島県脇町高OBとの交流試合などをしていると、地元の関係者が先日の日経新聞に書いていた。▼当時のルールは今とだいぶ異なり、打者が好みの高さのストライクゾーンを審判に要請できる、四球でなく五球で出塁するが盗塁も離塁もだめ、またフライはワンバウンドで捕ってもアウトなど、随分とのんびりしていたようだ。▼それでも、子規の歌からは、決して今に劣らないゲームの躍動感が伝わってくる。「今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸のうちさわぐかな」。(E)